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裏研おすすめマンガ家リスト
ところで、佐野史郎主演の映画「ゲンセンカン主人」は、観ましたか。
「李さん一家」のボロ家にしろ、「紅い花」の小屋や美しい沢、そして
「ゲンセンカン主人」の冒頭シーンのさびれた町並みなど、よくぞ見つけた
と言えるほど原作のイメージにピッタリでしたね。
しかし配役があまり良くないように思えました。
まず佐野史郎ですが、役者とは思えないヘタなセリフです。
あれは、味とよべるものでしょうか。私には小学生の劇に聞こえます。
個人的には、筑紫哲也にやってもらいたかったと思います。
「李さん一家」の李さんの奥さんは、もっとグラマーです。
「ゲンセンカン主人」のおかみさんも、もっと太めです。
三段腹で中年にさしかかった独身女のネットリした色気があるのです。
「紅い花」でキクチサヨコが川の流れのなかで初潮を迎えるシーンでは、
彼女の白いおしりをもっとみせるべきだった。
それでもハマリ役の人は、何人かいました。
特に「李さん一家」の李さん役の人と「池袋百点会」の
福ちゃん役の岡田奈々と須山役のきたろうです。
それにしてもやはり、と言うべきか。マンガのセリフを
そのまま映画やアニメ化すると全くダメになります。
マンガのセリフは、一瞬に目で追うことができ、
人は瞬時にそれを理解できます。
しかしアニメや映画のセリフにはリアルタイムが必要です。
(役者や声優がセリフをしゃべるのに時間がかかる。)
マンガのセリフは口語的に思えますが、実はあまりそうではないのです。
形式的口語というか、(中学生が訳した英語のように)
日常生活のなかでは、そんなしゃべり方しないぞ
というような、半口語的半説明的なセリフをわざとやっているのです。
人はそれを一瞬に読み、一瞬でありながらもリアルタイムにも永遠にも
自由自在にイマジネーションを膨らませて読んでいるのです。
マンガのセリフは、読者のイマジネーションの手助けをしているにすぎないのです。
ですからマンガのセリフをそのまま映画やアニメの
セリフにするのは、無理があるのです。
ところでこの映画化では、なぜ「長八の宿」をやらなかったのでしょうか。
とても映像的でさわやかな作品なのに。
なんと「ねじ式」が映画化されました。
「ゲンセンカン主人」の時と同じ監督のようです。今回もオムニバス形式で
「もっきり屋の少女」、「やなぎや主人」、「別離」を加えた4編。
写真で見る限り「ねじ式」の男はイメージが違います。
長髪で、髭が濃そうで胸毛もあります。もっとツルッとしたとっちゃんボーヤ
みたいなタイプだと思うのですが、
これを演じられる役者がはたして居るでしょうか。
一人だけ居ました。阪田利夫(アホの阪田)です。
しかし彼は、すでに歳をとりすぎています。
私は全てのマンガが好きというわけでは、ありません。
私は、美術に関わる者で、自分も創造的造形表現者の一人ですから、
マンガも、人間の創造物として、評価しているだけなのです。
文学や詩や美術や映画や音楽など、様々な表現があり、
どの分野にも良いものと、くだらないものが混在しています。マンガも同様。
優れたマンガは、優れたその他の芸術に負けず劣りません。
マンガの魅力には、様々な面があると思います。
ただ私は、美術系の人間なので、どうしてもストーリーやギャグセンスよりも
「絵」の魅力を重要視してしまいます。
したがって、ここでの選択基準は(いかに魅力的な「絵」であるか)です。
ストーリーやギャグも大切ですが、マンガから絵を取ってしまえば
ただのお話しでしかありません。
魅力的な「絵」こそが良いマンガの最低条件となるのです。
「絵」がストーリーの説明のための道具であるようなマンガ
(ハウツーもの、役人がよく作る)や
誰かの物まねマンガは、ここにはありません。
どれもみな、自己表現を追及したすばらしい「作品」です。
マンガは、商業的な成功というプレッシャーに常に苛まれています。
そのため安易な成功を得るため、セックス、暴力、ステレオタイプな表現、模倣
などに陥ってしまうものが多いのも事実です。
しかしそのような厳しい条件の中からも
時に宝石のように輝く作品が生まれてきます。
マンガには、文学にも、詩にも、美術にも、映画にもできない表現があります。
マンガには独特の時間経過の表現があります。
人間の脳と同じスピードで場面の飛躍ができます。
映画やアニメは、リアルタイムでストーリーが展開していきますが、
マンガは、コマごとに一瞬に「絵」を見、セリフを読むことができます。
これは、ストーリーの流れの中で読者が自由に緩急をつけてイマジネーションを
ふくらませながら読んでいくことができるということです。
また、その機能を利用した表現
(静止した一コマの中に因果関係を表現する。)も可能なのです。
また文学では、字面を読み続けるという行為が
時にイマジネーションを疎外することもあります。
一読で理解できずに何度も同じ行を読んだり、
難しい漢字があったりした場合です。
読むスピードがイマジネーションに追いつかないのです。
しかしマンガはコマ割によってその問題を解決しています。
マンガは、文学における挿絵とは違うのです。
最小限のセリフと、魅力ある「絵」の相乗効果で、
文学でも、詩でも、美術でも、映画でもない
素晴しい表現方法として確立しているのです。
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