美術大学の起源はルネサンス期のフィレンツェに創られたアカデミアにあるといわれている。現在その場は初代の校長であったミケランジェロの彫刻を展示する美術館となっており、ダヴィデ像の本物もここに展示されているので訪れる人も多い。
 私はそこで創設時の教材であった彫像に注目させられた。面のポイントらしき箇所に黒丸が付けられていて、それがコンピュータ映像制作で行われる3次元スキャンを連想させたからである。立体を面で再構成して、光源を設定し明暗法で描き出すという原理は石膏デッサン、CGともに共通だ。最近に公開された映画「指輪物語」のラストシーンはまさにクロード・ローラン(上右端)の、戦闘シーンはアルトドルファー(右隣)の絵画そのままであった。この映画では1秒間につき24枚分、様式上も昔と同様の絵画を描く作業をCGで行ったのである。
 このようにCGは映画と結びついて、過去に油彩画による巨大な絵画が果たしていた機能を引き継ぎ、想像も出来なかったような光景をリアルに映像化して世界中の人々を驚かせている。映画の前身である写真にとっても、その理想、究極はフェルメールの絵画であると言うこともできよう。キューブリックやリドリー・スコットをはじめ多くの監督が以前から絵画を意識した映像を制作しており、現代人は気づかぬままに西欧古典絵画に囲まれて生活しているのである。

 ルネサンス時代の造形原理は四百年後の現在も先端分野で生き続けている。そして石膏デッサンは東アジアの数カ国で受験課題として生き長らえている。19世紀の写真術発明の時には多くの肖像画家が写真業に転職したという。同様に石膏デッサンの学習がCGを目指した人には何らかの形で役立ったと思われるが、初志を貫いて絵画の道を進んだ者には非常に迷惑なものだった。
 相当な労力を使って学んだものなのに、大学入学後にはこの影響から逃れるために再び労苦を強いられるという、こんな理不尽なものが持続している、その理由はとても非芸術的なものである。
 ボクシングの試合のように明快に判定できる。
 教えやすい、学びやすい。なにしろシステマチックで科学的なのだから。
 集中力と共に持続力が要求される。
学校教育にとって有り難いことばかりだ。どうせ天才は教育と無関係に生まれるものだし、画家を目指す人のほとんどが教職で糊口をしのぐのであるから次の世代への受験教育にも役立つのである。
 このサイクルが循環することで大学や公募団体も安定できていた。「純粋造形」を支えていたともいえる。いま美術教員への道はとても厳しくなっているが、その影響は大きく広がりそうだ。