リュックサックを買った。
デザイン、機能、容量と変化に富んだ品揃えに、色々な思いが湧き、ひとつを選び出すのに時間がかかる。
大きめにするか、1週間ぐらい、ぶらぶら旅行したいから。
でも使用頻度からすると中ぐらいのものがいいだろうな。
色はオレンジ系統の派手なものがいい。パーカーは黄色だし。
山用品の店では時を忘れる。
食器やナイフ、ロープなど、「日常品」とは対極の発想が嬉しくさせるのだろう。
山というより、うろつきまわるのが好きなのだ。
信州など一度も行ったことはないけれど、近郊の山へはよく出かけた。
京都の周辺はいいコースがたくさんある。
たいていひとりで歩いていた。
絵を描く人はたいていそうだけど、みんなでパアッとやるような音頭取りが苦手だ。
それは、いいことじゃないが、5人ぐらいが俺のリミットだ。
いま密かに新しい自転車の購入を計画している。
手軽に輪行できるタイプのものだ。春休みには、それであちこち廻りたい。
そんなことを考えていると仕事にもやる気がしてくる。
忙しいから遊びたくなるのでもあるが。
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4,50代の中国人芸術家が、アメリカで(つまり世界で)活躍している姿を、テレビで何度も見かける。
彼らは少年の時に体験した文化大革命について語るとき、必ずしも全てを否定していない。
農村での協働・自活の生活で考え方が一変したという。そして現在の文明の行き詰まりについて西欧人にない展望を示す。
「下放」された農村から都市に戻った彼らは、知力あるいは財力に恵まれ、「西側」に出て現在の地位に登りつめた。そんな彼らが流暢な英語で「原点は農村だ」と語る。
もし彼ら中国人アーチストが次世代をリードすることになるなら(そんな勢いを感じさせるのだが)今、悪名とどろく毛沢東だけれども、彼が望んだ形ではないにしても、あの「世界文化大革命」を成し遂げたことのなるのではないか。
複雑なものだ。
そんなことを車の中で考える。化石燃料を爆発させながら。
環境破壊の絶望的状況をリポートした本を何冊か読んだけど、こうして車を運転している。
どうしても車が必要だという理由はないのに。それどころか、今すぐ車を放棄するべきなのに。
誰でもが問題を先送りする。政治家や経営者だけでなく、今しなければならないことをすることは、ほとんどの人間にとって不可能だ。
何故か?
一言でいうと慣性の法則だ。
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ダムに砂が溜まって、どうしようもないことになっているそうだ。
本来は海に流れて砂浜を作っていたはずだが、戦後の復興、電力需要で各地に造られたダムが、その砂で埋まっている。
杉の植林と同じ哀しさ。
今朝は退職金が払えなくなっているという記事が新聞に。
これは計算すればわかっていたはずのことではないか。
それとも金利が下がって思惑がはずれたのか。
こんなはずじゃなかったのに、ということばかり。人生、そんなものなのかも。
先日タバコのことを書いたけど、なつかしや二十数年も前のアルバムに広島近郊のタバコ蔵が写っていた。
これはチベットじゃないかと思った。自分が撮った写真なのに。
今ここにはトイザラスが建っている。
日本は変わった。
そんなことでタバコについてまた考えていた。
タバコが抑圧されてきた背景にあるものは何か?さらに巨大な悪とも言える車や排ガスについては、近年トーンダウンしているのは何故だろう?
文明のためには車を捨てて環境を救い、タバコを吸ってさっさと死んでいくほうがいいのだけど。
少なくとも車を運転する人は、盲目的にタバコを否定しないでほしいね。
俺も週に一度だから最近は、偉そうなことは言えんけど。
あの自転車通勤、もうちっと頑張らんといかん。
中国人に自転車を手放さないようにお願いしないと、日本は砂漠になるぞ。
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100%文句無しにパーフェクトな晴天のある日、市内東部の山に登った。
新しく買った登山靴を慣らすために手頃な山に登ろうと考えたのだ。
まともな靴が要る、と思いつつ長いあいだ「安かったので買ってしまった」という登山靴で無理を重ねてきた。踵があたって皮がむけるというのに。
靴は妥協できない。あたりまえのことだが、ようやく事実を受け入れて買い換えた。
しかし、山は以外にも厳しかった。
その報酬として素晴らしい眺望を楽しめたけど、足はガクガクになった。広島の山は何処も甘くない。
岩場で高校生の団体がロッククライミングの練習をしていた。やってみたいと思ったけれど、何秒間、腕力だけで自分の体重が支えられるだろうか?昔の俺なら簡単だったが、今はなんと60kgだ。
その近くの岩に素朴な観音像が祀られていて、添えられた言葉がブッ飛んでいる。
右に「おかあさん、それは」
そして左に「かんのんさまです」
こりゃ、なんじゃ-?
すごいじゃん。誰が考えたコピーなんだろう。
ドラマがある。何かが始まる。
このノリでもっとやれそう。
「おとうさん、それは」
「あなたのむすめです」
「おにいさん、それは」
「わかめです」
「おまわりさん、それは・・・・」
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タバコが若者の世界で流行している。
中学から吸っているという女性も多い。
動機を尋ねると、タバコを吸う姿がカッコいいなと思ったという。
大人の世界でタバコが締め出されていったのと逆行している。それだからこそ彼らがタバコに接近するのだ。
俺も7年前まで吸っていた。
アメリカあたりからタバコを吸うのはカッコ悪いというトレンドが発生して、居心地が悪くなったことと、さすが40代にもなると、タバコを吸うほどの元気もなくなってきたから止めてしまった。
確かにタバコは健康に悪い。しかしある意味では、健康は芸術的ではない。
俺は健康になってから絵が描きづらくなっている。
また、あまり考えることもしなくなった。
これが禁煙の結果であるかどうかは怪しいけれど。
あの煙を眺める「間」というのは悪くない。
昔から、美術とタバコには深い縁がある。
俺が大学へ入学する直前に、京都の東山にあった芸大の一部が焼失した。
タバコの火が原因だったと思われる。
とにかくやたらとタバコを吸う教員が多く、学生も負けじと吸いまくっていた。
アトリエの中は灰皿の中に居るような状態で床は吸殻だらけ。
講義のときも、教授がタバコをくわえながら入ってくる。
右手にチョーク左手にタバコで、短くなってきたと見るや、さっと新しい一本を取りだして炎を移す。
そして古いタバコは火も消さず、ポイッと投げ捨てるのである。そして「みなさんも吸ってくださいね」
これにはびっくりした。
そして、吸わないといけないような雰囲気になって学生達もタバコに火を点け、講義室はもうもうたる煙に包まれるのであった。
もちろん、講義の終わった教室は吸殻だらけ。
大学が全焼しなかったのが奇跡だといってもいい。
その教授は肺ガンで亡くなったけれど。
こんな経験があるから、大学内での喫煙マナーをめぐる議論でも、いまひとつ本気になれない。
路上の吸殻は汚いと思う。でもポイポイとタバコを路上に投げ捨てるパリの人々の姿は、なかなかいいものだなあとも感じるのだ。
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紅葉を見に行く。
そんなこと、子どもの頃には考えられなかった。大人たちが桜だ、紅葉だと言うのが理解できなかった。とてもバカらしいことに感じていた。
思えば世の中、変化しないものはない。共産主義みたいに。
だから紅葉を見に行った?いや、そういう大変なことを考えてのことではなく、気軽な散歩として臥龍山へ向かったら、大変なことになっていた。
11月になったばかりというのに、しっかり雪が積もっている。
頂上は膝までの深さの積雪。
幸い、風は弱く、ときおり陽光も差して寒さは感じない。
頭上は秋の紅葉、足元は真冬で、そのうえにさらに落葉が降りかかる。
至福のひと時を過ごした。
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連日、ノーベル賞の田中さんが新聞紙上で活躍だ。
「初めてのぞみに乗れて嬉しい」とか言うので、余計に人気が出るのだろう。
しかし、ノーベル賞ねえ。いつも思うのだけど、どうして自分達で、日本の中で「評価」できないのか?
スポーツ選手みたいに明快にはいかないけど、やっぱりズバッと決断できないのはいいことじゃない。
ブルーノ・タウトに誉められて桂離宮が有名になったという逸話を、井上章一が検証しているものを最近読んだ。
明治以来、西欧諸国からの評価と日本人の価値観は複雑に絡んでいる。
その根底には白人種への劣等感があるので、居直ると偏狭で屈折したナショナリズムになってしまう。
まずは、「日本の・・・」とか「日本人の・・・・」とか言わずに、「自分の」価値観を築くしかないな。
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コンセプチュアル・アート(概念芸術)というものがある。
20世紀になってから新奇な作品が次々に作り出されている。そこでは作品を作る技術よりもアイデアが、より重要になってくる。
だったらアイデアだけでもいいじゃないか、ということになってきた。
アートと書いた紙切れを作品にするような理屈だけのものが多いが、リチャード・ロングという作家は歩くことを作品にした。
野原を行ったり来たりしたあとに真っ直ぐな踏み跡が残る。その写真とその行為を定義した言葉で作品にしている。
x型に歩いたり、Oの形に歩いたり、岩山では石を拾って円形のなかに並べたり、直線に並べたり、世界の荒野を歩いてそんな作品を作ったというか記録している。
時には美術館でその行為を展示する。インスタレーションという便利な言葉が出来て、パフォーミング・アートの人たちも展示が出来るようになったのだ。
作品集も多く出されているから、なんやかんやで結構もうかってるのだろう。
トニー・クラッグという作家は街を歩いてゴミを集めた。
コンセプチュアルというよりはダダの系統を引き継いでいる作家だ。
そんな系図みたいなものはどうでもいいと思われるだろうが、現代美術の奇妙なところで位置付けにこだわる人が多い。困ったことである。
彼はプラスチックを色別に分けて、それを美術館の壁に人間のシルエットの形にくっつけた。
これは、ハッとするほど綺麗で僕も見たときには驚いた。
両者とも「見せ方」がうまい。そしてエコロジカルな問題への拡がりがあるので、マスコミにも取り上げられやすい。
最初は「情報価値に過ぎない」と軽視されていた美術のスタイルが「情報の時代」になって強い存在感を持つようになってきた。
最近リチャード・ロングは川泥を壁面に投げつけて、花火のような滝のような迫力ある作品を作っている。
新装なったロンドンのテート・モダンでその作品を見た。それ自体は爽やか感に溢れていたけど、同室にモネの水面の絵を並べて対比させている展示には疑問をもった。学芸員の増長に「思いあがりもいい加減にしろ」という国内の批判があったと聞く。
それよりも考え違いしている。ロングのは絵じゃないのに。
感心するのは写真のうまさ。実物よりもずっと良く撮れている。情報価値だね。
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村上春樹の新作「海辺のカフカ」が売れまくっているらしい。
そういうものには手を出さない俺だが、嫁さんが他人から借りて読んでいたのでちょっと覗いてみる。
おもしろい。読み進むほどに引き込まれる。
この感じはスティーブン・キングと似ている。
「こんな会話を普通の人間がするはずないじゃろうが」「こんなアホなことが起こってたまるか」というような疑問が、いつの間にか押しやられてストーリーの中に溺れていく。
こりゃ確かに売れますわ。
純文学の作家はおもしろくないだろうな。あんな歯が浮くような気障なおとぎ話がもてはやされて。
でも今時本を買って読もうという人はどんなタイプがいるかと考えると
音楽が好きで、映画館も時々、旅行にもよく行く。
あまりテレビは見ないけど、かといって特にシリアスなものを求めているのでもない。
こんなタイプも何百万人かは日本に居る。そして外国にもいる。
需要があるんだ、井上陽水のCDを待つ人と同じくらい。
好きな作家なのだが、彼の持ち味は「軽妙な言い回し」にあるので「重そうな内容」や不条理なテーマは似合わない。
ドーンと残る読後感は求めないから、「読む快楽」で走りきってほしいな。
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万全の体制で望んだ講義で、準備した画像を投影できなかった。
パソコンとプロジェクターの接続がうまくいかないのだ。
前回にこのセッティングで手間取ったこともあるので、今回も用心して25分前から準備を始めた。ところが、いくらやっても思うようにならない。慌てる。学生が教室に入ってくる。授業時間を過ぎても解決できない。
開始後十分を経過してパニックに陥りそうになる。学内の他のパソコンを探そうかと考えて飛び出すが、その無理を悟って引き返す。
仕方なく語りだけでやると決意。
どんな作品なのか、何を狙ったのか、どんなバリエーションが作られたのか、話し続ける。
これから先、どのような作品を紹介しようとしているかまでを話題にしたから、時間はすぐに過ぎた。
気合は入っていたから、結果的には「いい講義」になったと思う。
それにしても、コンピュータは慣れていると自惚れていた。
ノート型は違うのだ。相当の時間、手元において使いこなさないとトラブルには対処できない。
授業の後、トラブルの原因を探ってみる。
初歩的な操作法の未熟によるミス。20分ほどで解決。
こういう対応もデジタルものでは従来の方法とは異なる。機転とか応急処置とかは利かない。
見たり、触れたりしても原因は探れない。
脆いものだ。素手で勝負できる何かを持っていないとヤバイね。
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後期から始った専攻科の新しい講義で、現代の美術をわかりやすく紹介したいと考えた。
そこで「やさしい美術」「現代美術入門」「なぜ、これがアートなの?」といった本を流し読みしてみた。
どれも、全然やさしくない。
言葉で作品を語ろうとするからだ。
自分で本を書こう、と考えた時点で難しさの中にはまり込んでいる。
図版がほとんどで、少々の説明といった本なら軽妙な見出しをつけて「わかりやすい」雰囲気を演出できるのだが。
それ以前に、これらの本を読む俺自身が、あまり他人の意見に耳を傾けるタイプではない。
「何を言ってやがるんだ、この野郎!」という喧嘩腰のスタンスだから、「わかる」はずもない。
NHKのテレビ番組は、なんとか親しみやすくわかりやすくしようという配慮が過ぎて、評論家と共に行動するかわいい姉ちゃんが、筋違いのことばかり言って戯れたり、情報収集という見地から非常に時間の無駄なことをしてくれる。
教養番組を見る人々のレベルを過少に低く考えているようだ。
この点ではBBCなどは、ずばり知識を求める人に応えている。
学校教育のレベルが低すぎるので、私立校に人気が集まるという傾向にも、同じような問題があるのだろう。
結局、授業は具体例の紹介を中心にして、それから次に考える段階へ進めようということにした。
となると、毎回、膨大なスライドを撮影しなければならない。
ここで福音はパソコン用のプロジェクターが、安くなって使えるようになったことだ。
スライドの撮影は接写台に固定した上、正確に露出を決めなくてはならないので、大変な労働だった。
それがデジカメで適当に撮って、後から歪んだ形や露出の過不足をパソコンで修正できる。
図書館にカメラを持ち込んで、手持ちで撮影できるので楽なこと、このうえない。
ただし、授業前にノートパソコンとプロジェクターの接続や設定をしなくてはならないので、本番ではあまり楽になったとは思えない。
でも、ひとたびこのパックを作ってしまえば、来年は楽になるぞ。CDにして販売してもいい。
そんなことをしたら誰も授業を聞かなくなるか。
教員も不要になって首になるかも。
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10月の26日(土)27日(日)に本学の大学祭が開かれる。
そこで教員によるチャリティをすることになった。11:00〜17:00
私はこういうものを出そうかと考えている。
誰か買ってくれないかなあ。
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長逗留の客人が帰って、やっと普段の生活に・・・・
といっても普段の生活というものが、失われているので、さほどの変化ではない。
3番目の息子が大学へ行ってから、バイトや勝手気ままで我々とはズレた生活を始めてリズムが狂わされている。
(おそらく上の二人もこういう生活ぶりなのだろうが、家を離れているからわからない。)
こうしてみると時間どおりに学校へ行くという習慣を軸として、20年近く生きてきたのだ。
子供が手を離れるというのは大きなことだ。
世代が代わったなと感じさせられる。
この世代について考えるところがあって、こんな表を作った。
30年が1世代とされている。いま20歳の人の平均的な親の年齢が50歳、その親は80歳。
それぞれが生きてきた背景を想像する。1940年に20歳になった現在80歳の人たちは大変な激動を生きた。
その親の親になるひとが明治維新を体験している。
歴史では100年といえば昨日のようなものだが、こうしてみると遠い。
この表で示されている時間の流れ方は数百年ほど前の、それも穏やかな時代のものだ。
こんな調子で少しずつ変わって行くのが自然なのだが・・
下に書き込んだ2000から1850の表示にリアリティがない。
この100年で空間感覚も大きく変わった。今朝、関空を発ったR氏はそろそろヨーロッパに着く。
また当分、時差ぼけに悩まされるのだろうな。
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街中で軽くビールなど飲みたくなって、どこに店があったか思い出しながら歩いたけど、全部なくなっている。
2、3年ですっかり様変わりとは、どうなってるんだ?昔ながらを求める人はいないのか。
いつのまにか、どばっと入り口が開いたというか、ドアがないようなオープンな店がいっぱい出来ている。
こんなのをカフェスタイルとか呼んでいるのだろうか?面白そうだなと入ってみたが50代のオヤジなんか皆無。
おっさん達は遊ぶ暇なんかないのだろうか。
そうでもないだろう。
もう少ししたら、盛り場は50代以上のおっさん、おばさんだらけになって、「昔は若い人が良く遊んでいたのに」とか話すようになるかもしれない。
大学でも夕方からオープンカフェ風に超リラックスした講座を開いて、いっぱい飲みながら雑学と交流を楽しむ。
今から開かれる会議に提案してみるかな。「いいですねえ」と言われるが誰も本気にはしない。
それをやるのがベンチャーなのだろう、誰もが考えるようなことを、「思い切って」やること。
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あるとき幽霊の話題になった。
日本は湿気が強いと聞いていたが英国よりも低いねという彼の話から、湿気の強いところには幽霊が出やすいと、以前にどこかで聞いていた俺は、そこに話題を向けたのだ。
すると、かれはぞっとするような体験談をいくつか披露してくれた。
朝の4時ごろに下宿屋に戻って、広間のソファで休んでいると、ドアが開く音がしてキシキシと雪を踏むような足音が近づいてくる。
その住宅は絨毯が敷き詰められていたので、そういう音は出ないのにと考えていると急に全身が寒くなってきた。
足音が近づくので怖くなって叫ぼうとしたが、声が出ないばかりかまったく体を動かすことが出来ない。
この状態は同居人たちが起きる9時ごろまで続いていた。
そしてなんとこの家に住む人たちは全員同じような体験をしていたそうだ。
この30数年前のことが、あまりにも鮮烈に記憶されているので幽霊の存在を信じざるを得ないという。
さらに若いころのガールフレンドが幽霊と共に生活していたこと。
霊的な能力が強かったお婆さんが、語ってくれた体験談など話題が尽きない。
どうやら世界一たくさん幽霊が住む国は英国のようだ。
マーマイトという食品を土産にもらった。
英国にしばらく住んだ人でないと出会うことはない食品だ。
あちらでも好き嫌いが真っ二つに別れるというから、外国人に出すことは避けているのだろう。
野菜を煮詰めて発酵させたタール状のペーストで、パンに塗って食べる。
「母さんがトーストにバターと、このマーマイトを塗ってくれた」とか言ってリチャードは懐かしがっている。
醤油と味噌を練り合わせたような味がするので、キュウリに塗ってみると、かなり合う。ゲルマン系の料理は、なんでも煮詰めるからこういう屈折した調味料が出来るのだろうか。
これにムスリー(ミューズリーと発音しているが。これは広島でも買える。)という淡白なシリアルで英国の簡素な朝飯になる。
ムスリーにはミルクをかけて食べる。そのミルクをコンビニで買ったら、ヨーグルトだったというから改めて見つめたら、なるほどMILKというアルファベット表記がない。
何でもかんでも英語ばかりで、日本語で表記して欲しいと思うことが多いが、反対のことも少なくないのだ。
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ここしばらくは外国旅行をしている気分だ。
臨時講師のリチャードに研究室を提供しているので、朝からずっと英語を聞かされる。
聞き取りに慣れてくると、彼の話も次第に早くなり長くなる。
ほとんど適当に、そうかそうかと聞き流し、まあ、こんなもんでいいかなというような、いい加減な答えを返しているのだが、その間にとんでもない誤解が生まれていたりもする。
例えば、「何時からは(いつでも)受け取れる」というのと「何時までに受け取るべきだ」という意味合いが(いい加減な)前置詞の使い方で変わってしまう。
自分としては間違ったという自覚がないから、それを問いただそうとする彼の質問の意味を把握しにくい。
流れが悪くなっても、確認しながら進めるべきなのだろう。
その点に関しては大学の英語教員の会話を聞いていて感心させられた。全然レベルが違うので当たり前というか比較にならないのだが。
昼飯を食べる時には何か軽い話題が欲しい。美術関係の話で議論になったら大変だから、その話題は避ける。となると音楽なんかが一番いい。
リチャードはジャズにも詳しい。「マイルス・デイビスはやはりKIND OF BLUEが最高だね」とか「チェット・ベイカーはどうして麻薬に走ったのか」など話題は尽きない。職場の同僚とこういう話ができないのは寂しいことだ。
旅の話題も楽しい。しかし地名の表現で混乱する。「ロシアのジョージアに行った」と彼が言う。「それはアメリカでしょう?」「いやロシアだ。トビリシという町がある」「それはグルジアだろう」と、地図を見せる。gruziyaと表記されているが彼は納得しない。
帰宅してから子供たちが使っていた新しい地図を見ると、あれまあ、georgiaとなっている。北京はベイジーンと英語では呼んでいる。以前は英語圏でもペキンと発音していたが現地の表現に合わす様に変わってきているのだという。
それじゃペキンとは何なのだ?
画家のゴッホの読み方と同じような混乱がいっぱいある。
ま、そんなことも話題になるわけで、こういう何でもないことを話すのが会話なのだろうね。
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英国からのゲスト、リチャードさんに日本語の教授を試みる。
一二三はitch,nee,sanというように似たような単語をあてていくと楽に発音できる。
十なんかjewユダヤ人だ。
ところが百がどうしても発音できない。HYAKUはハイアクと発音される。ヒャという音が英語にないのだろう。
そこでhear+coo、これを早く言うようにしてみたが、これでは日本語にならない。
こんな簡単なことがどうして出来ないのかと思われる所、ものすごく単純なところにコミュニケーションの落とし穴が在る。
たとえば自動券売機の路線図と料金表。
すべての駅にローマ字が併記されているのに、今いるところは大きく「当駅」と漢字だけで示されている。
日本人だけだと気づきにくい間違いで、これはおもしろかった。
大人と子供の料金が上下に表示されているのは、片道と往復に見えるとか、お金を入れてから金額ボタンを押すことの説明がないとか・・・・外来者には疑問だらけ。
どんな小さな駅名にもローマ字が併記されているのは何故か?と尋ねられた。考えたこともない。
昔からおなじみのJRなどの駅表示だが、宿でこんな話が出ても、その形を思い出せない。
さて、ひらがなはあったかな、ローマ字はどこだったか、描いてみようとしてもできない。
知ってるといっても、曖昧なものなのだ。
ローマ字はアメリカに負けてから表示されるようになったのかと思ったが、それは違って戦前からあったそうだ。
こんな情報はWEBで得られる。鉄道マニアとコンピュータはつながっているから。
ローマ字といえば、昔に日本語をローマ字にしようという運動があって、ローマ字タイプライターが作られたこともある。
あれはどうなっているのかと検索してみたら、なんとまだ存在していてホームページも作られている。
demone ro~maji de bunsho~ wo kakutte totemo
mendoude iraira saserareru monoda.
tokuni konpyu^ta ya handoru to iuyouna gairaigo
ha kimotiwaruku naru
なんか変でしょう?
なんどか英国に住む友人とローマ字で交信したのだが、リズムが悪くて、結局英語に落ち着いている。
ひどい英語だけど。
そんな俺でも、ある寺で「Don't come in」と表示されていたのには驚いた。でもわかるんじゃないかな。
「どうぞいらっしゃい、ではない」というニュアンスになるのか。半分わかれば良しとしたい。
日本語でも半分も通じていないのだから。互いに同じ言葉で違うことを考えている。
こんなふうに、いろいろ気づかなかったことが新鮮に見えてくる。
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学内の改装で研究室が使えない日々が続いていた。
こんなことは滅多にないことだが、研究室を自分の部屋のようにして使っているので不便なことこの上ない。
おまけにネットワークが停止したりで追い討ちをかけられた。
これが長い間、ホームページの更新を怠っていた言い訳です。
無事に家族がイタリア旅行から戻ったら、雨が激しく降ってきた。
彼らを空港に送った日以来、雨はなかったのでなんと16日ぶりだ。
気温もぐっと下がった。
時差ぼけと旅の疲れで息子は数日間眠りつづけ、それほど集中して眠れない女房は苦労している。
西から東に向かうときに時差を強く感じるという話を聞いたことがある。何故かはわからない。
太陽の進行方向と逆だから、その差が大きいからだろうか?
時差といえば、大学に招いた英国からの臨時講師、リチャード・コックス氏を迎えに行ったのだが、彼も非常に時差に悩まされていた。
午後になると睡魔に襲われて動けなくなる。女房と同じ。
リチャードさんは日本語が出来ないので、英語での会話になる。しかし俺にはtravelとtroubleが聞き分けられない。
参った。
時間がたつほどにラジオのように英語にチューニングできていったけど、脳が混乱して疲れた。
4日ほど共に行動して、意外に通じあえたという印象だったが、その理由は二人とも同じ年代で、美術家で、ビートルズ、ベトナム戦争、ヒッピーと同じような出来事を体験し、ディズニィーランド、マクドナルド、カラオケ、ジョージ・ブッシュ大嫌い、ジミ・ヘンドリックス、バッハ、インド大好き、インドのどこが好きか?ジャイプール、おおピンクシティだな、行ったことがあるぞ、という調子で話が盛り上がったからだろう。
つまり以心伝心、英語は関係なし。
コミュニケーションって、そんなものだ。
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帰宅しても誰も居ない。そんなことが俺にはほとんどなかった。
一人暮らしをしたことがないのだ。
それがここしばらくは事情が違っている。
嫁ハンが長い旅行に出ていて、息子は夕方からバイト。誰も居ない。
そうでもないか、猫が居た。
ひとりで寂しいのか俺が帰ると擦り寄ってきて離れない。
玄関でグルーミング。台所でもマッサージをせがむ。
黒猫ノエルは足の裏で撫でられるのが好き。片足を上げながら全身を撫でようとすると
不安定な姿勢で、結構疲れるのだ。
ひとしきり戯れると、いつもの快適スポットに移ってゴロゴロ。
朝は早起きになって、洗濯、弁当、ゴミ出し、掃除、2時間近くかかる。主夫は大変だ。
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秋です。
高原の木陰で読書、そんなイメージが浮かびますね。
八幡高原、二川キャンプ場、真夏の陽光の午後、それを実践してみた。
あまりにも通俗的かなと思ったけど、やってみたら全然通俗的ではない。
宗教的な行というか座禅みたいなものだ。
ボケーッとして雲を眺め風を楽しむ。そんな意気込みで座ったものの、30分も持たない。
小川でダムを作り、周囲の草花を見て廻り、ビールを飲んで草の上に寝転がってようやくおとなしくなった。
安楽椅子に座って数時間ものんびりなんて、できるものではない。
フランス人のバカンスはこれを1週間も続けると聞いたが、すごいね。
これを繰り返しているうちに「達人」になれるのかもしれない。その為にはほんとうにたっぷりと自分の時間を持っていないと。