11月の天候はスポーツがらみの行楽には最適だ。
動いても大汗をかくこともないし、冷えて体がこわばることも無い。
ということで、またまた呉線は天応にそびえる巨大な岩山、天応烏帽子岩へ。
これまでも呉に行く度に、この山の姿に惹きつけられていた。
大雨や地震でもあれば大きな岩塊が海岸線まで転がり落ちてきそうな危うさ。
とても登れそうには見えない、その山に登ろうと思い立った。
結論から申し上げると、ここはできるだけ若いうちに登ったほうがいい。
山登りというよりも木登りと言うべきでしょうか、手袋は必携。
かなり際どいポイントが続く。

木登りが得意な女房はさほど苦にすることもなく登っていたが、激しい筋肉運動で肩こりが楽になったという。
さらなる疲労が凝りの痛みを覆い隠したのだろう。
頂上の眺望は素晴らしく、グライダーで飛びたくなる人もいるかもしれない。
登り以上に緊張を強いられる下りで消耗した足の筋肉を、ふもとの明るい森で休める。
ビナンカズラ、ムラサキシキブ、ヤシャブシ、サンキライなど果実がいっぱいで、それを求めて集まった小鳥たちの声があふれている。
嫁ハンが植物採集をしている、しばしの間、ふうっとうたた寝。至福。
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先週から光が変わった。
風がちょっと冷たくなって木々は紅葉を深め、光は透明度を増した。
街に行く時には必ず通る工兵橋
お気に入りの場所だが自転車で通るのは久しぶり。
B画材店でバーゲン品を物色。日本画家F氏等と街中に住むことについて話す。
そこで格安のイタリア製ロールキャンバスを注文。こう書くと食べ物みたいだけど、画布のこと。食べられません。
ハンズに行ったりうどんを食ったり。
パートタイムの絵画教室の後、サロンシネマへ。自転車は畳んでシートの前に置く。
映画はズバリ言って愚作。でもシティライフの真似事を楽しんで深夜の電車で帰宅。


次の日曜日はたっぷりとテニスを楽しんだ後、車から降ろした自転車(今回はロードで)に乗ってあちこちへ。
昔の同僚だった陶芸家の仕事場でたっぷりと雑談のあと、ニュータウンを抜けて三篠川の堤防を中深川へ。
この時間帯の光は特に素晴らしく何を見ても感激だ。
ビートルズの歌った歌から「In My Life,I Love Them All」という歌詞を思い出す。
またその連想からビコーズの歌詞へ Because The Sky Is Blue , It Makes Me Cry, Because The Sky Is Blue・・・・・
そして亡くなったジョンやジョージのこと。
あまりにも美しい光の時、いつも死を想う。

太田川、高瀬堰上流では水と植物が絡む魅力的な風景を堪能できる。
何故かミシシッピとかニューオールリーンズを連想する。映画でこんなシーンを見た
のかもしれない。
ということでもう一枚写真を。

八木上水に沿って緑井へ。そこからはいつものように安川沿いを走る。
水の傍ばかり走った。道が水と共にあるのか。
ニール・ヤングの歌から「Down by the river. I shot my babe」とかいう一節を
また、イージーライダーのテーマから「The river flow, flow to the sea」という歌詞を思い出したり。
残るものです、若い時の記憶は。
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ここしばらくは予算やら将来計画やらで書類ばかりの毎日が続いていた。
といっても朝7時から夜10時まで働いてはいないから、大騒ぎするほどのことでもないが。
こんな日が続くと書類に関わっていないと仕事をしたようには感じられなくなって、
職務上やらねばならないことが、人間としてやらなければならないことや、自分自身としてやらなくてはならないことを圧迫したり、覆い隠したりするようになる。というか、
後の二つは自分で考えなければやれないことで、強制されることよりも、その点では楽だ。
どうでもいいようなつまらないことでも働いたような錯覚を持てる。気がついたら何もしていなかった、なんてことになったとしても、それはその時か。

いったい何を考えているんだ俺は?

やっとこさ冷たい風が吹いた朝、光も澄んで、照らし出された木の葉がきれい。
このごろ緑が美しいと思う。
でも一番苦手な色が緑。うまくいった試しがないのでほとんど使ったことが無い。

やってみるか、今度こそ。
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山口にオープンした芸術情報センター(YCAM)を訪ねてフランスのモダンバレー公演を見てきた。
湯田温泉の真ん中に派手なサーチライトでライトアップされて、この中だけ東京みたい

シュトックハウゼンの音楽で踊るダンスに巧妙なビデオ投影が絡む「ヘリコプター」。
ダンサーの動きにシンクロして、水の波紋などが床面に生じる。

ダンサーに赤外線を当てて、それをビデオカメラで読み取り、リアルタイムで投影されるコンピュータ画像を変化させているという。
お次はストラヴィンスキーの「春の祭典」の豪華2本立て。これで4000円とは格安。
これはデジタル抜きの肉体勝負。最後は全裸の乱舞ですさまじいエネルギーとスピード。

ディアギレフ率いるロシアバレー団。悲劇の天才舞踏家ニジンスキー。
何度も映画化されてピカソやマチスも舞台美術に。
今や古典、伝説になっている。
その原作の誕生から100年近くたって、極東の山口で鑑賞している。うむうむ。


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早起きして紅葉を見に行こうとする。年齢相応に。
ところが雨の予報。
新聞の紅葉情報を探すと、「今年は異常に落葉が早く色づきも悪い、その理由もわからない。」という記事。
これでは出かけるわけにはいかない。
それではと、千代田でやっている作品展を見ることにする。
ついでに豊平の龍頭山も登ろう、と靴を履き替えて歩き始めたら雨。雑草を採集しながら付近を歩く。
池の周りにむかし住居の庭だったと思われる土地があり、なかなかに綺麗な紅葉が何本もある。
一枝いただこうと近づくと、さほど色も冴えず汚い葉も混じっていて、見事な紅葉が揃った一枝を見つけることはできない。
美男美女と同じだなと冗談を交わすが、実際に遠ざかるほどに紅葉は輝き始める。近づいて取ろうとすると消えている。
絵であれば、好きなだけ完璧な葉っぱを枝に並べることができる。
写真で絵と同じようなものを求めるようとするなら、完璧な紅葉を探し出さなければならない。
これは描くよりも難しいことではないか。

地面に落ちている紅葉は、自分が選んでいるから、いくらでも美しい葉っぱが見つかる。
それらがひとつの枝に揃ってついているなんて事は無い。
当たり前のことなのだが、意識しなかった。おもしろいものだ。
絵のような写真を求めるかと思うと、写真のような絵を描こうとしたり・・・・

ぶらぶらしていたら滝にたどり着いた
水量は少ないが落差は大きい。
角張った石の上に夕立のように水が落ちる。

女房の止めるのも聞かずに断崖側面の登坂を試みるが、最後のところで向かいの岩場に飛び移れずに引き返す。
中学生なら簡単に飛ぶだろう。分別とはこういうことか。
残念だが登山気分を味わうことはできた。

香川龍介氏の個展へ
人物は良く知らないが、作品は淡白で洗練されている。クールなので好きだ。

並んだバンガローに展示されている10数名の作品は総じて「過剰」で胸焼けしそう。
俺は「何も無い」ような作品を求めているのかな?
ちょっと考えてみなけりゃいけないな。
とかいっても、ここに書いていること以上のことを考えたことは無いのだけど。

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落ち葉が美しい。
これをアップで見直すと「抽象画」になっている。
トリミングを重ねていると名作も生まれそうだ。
自然の一部を拡大して単純化した絵画を「抽象画」と呼ぶことは妥当ではない。
「一粒の砂に世界を見る」(W.ブレイク)という心情、また自然の中に庵を結んで、その窓から鑑賞するという「庭」の発想で、「切り取られた自然」としての絵画と考えるべきだろう。


落ち葉が美しい。
なぜ、これを美しいと感じるのか?人類、全ての人が紅葉を賛美するのだろうか?動物は紅葉に反応するのか?
嫌だ、という人も居るに違いない。
身近にも理解できない嗜好というものがある。それに遭遇した。
パルコの影で目立たないWIZのビル、その4階に奇妙な殺人事件で注目されているゴシック系の服飾を扱っている店がある。
これには唸った。学生の中にもいたけど、広島のど真ん中に大きな店が開いている。
「さっぱり理解できない。」と拒絶したくないので眺めてみるが「変なオヤジ・・・」という視線に圧迫されてカメラは使えなかった。
同じ階にある人形やガンダムを中心にした模型店には興味を持ったけれども、いやはや何というか・・。
こういう世界があって店が成り立つほどの取引がされている。「現代美術」のマーケットよりはるかに大きくて愛好者も多いのだろう。
モネ・ルノアールの愛好者からは、ゴシックも現代美術そのどちらも理解を超えた世界に映る。

環境や教育で感性が変わる。
落葉も無条件に誰もが生まれながらに美しいと感じるものだとは言えないだろう。

ところで幼稚園ではしばしば落ち葉を使って人や動物を作って遊ばせている。
ちょっと美術が馬鹿にされているように思わせられる。
そのままを味わうようにできないのだろうか。科学標本みたいに。
それで子供達が不満を表すかな?

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まもなく三瓶山頂という山道で大きな蛙に出会った。
人に驚く様子も無く、泰然と遠くを眺めている。
恐竜時代まで遡る長い時間、ほとんどこのように座禅を組んで過ごしてきたのだろう。
といっても三瓶が誕生したのは10万年前。現在のような形になったのは4000年も前のことではないそうだから地質学でいえば、ほんの少し前のことだ。

北側からのぼり、西の原への急斜面を降りる。これが逆のルートだったら辛い登山になったことだろう。
山麓の樹林をぬけて出発点に戻ったのだが、この緩やかな道がとても快い。
落ち葉の中にひときわ鮮烈に真っ赤な実が目を引く。これを「ニョッキ」と命名する。
それにしても案内の距離表示がまちまちで判断に困った。

姫逃池(ひめのがいけ)に着き、登山靴を脱いで芝生に横たわる。池の周りを裸足で歩いたのは最近いちばんの快楽体験だった。これですっかりリフレッシュ。
物部神社を経由して石見銀山へ。
夕方になっても暖かくTシャツ一枚で平気。
町並みは昔よりも整備されていたが、やはり宿場町や商業地のような華やかさ、軽さがなく、どこか寂しく陰気に感じられるのは俺の思い過ごしか。
しかし、ブラハウスだったか石見銀山生活文化研究所http://www.burahouse.co.jp/index.htmlが入っている民家のリフォームの見事さ、商品のセンスの高さは驚き。やっぱりデザインだ。
その近くで食べたソバもうまかった。やっぱり味覚だ。ついついお金を使ってしまった。
ということで印象を良くして帰るころには早くも暗くなり、月夜のドライブ。
2時間少しで着いたらインターの出口が渋滞。そうか連休の中日。そこで少しだけ大都市の気分。

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大学の掲示板に「偶然を拾う」と題されたワークショップのチラシが貼られていた。
11月23日福山美術館、講師-吉原 英雄
30年前に俺の大学の先生だったから、もうかなりの年配になっておられるか。ハンサムな人だ。

なんていいテーマだ。これこれだ。
今朝、頼まれていたCD盤面のデザインを適当にパッとやったら、とてもいい感じになって、ホンマ一所懸命に考えた時にはろくなものが出来ないのに、不思議なものだと思った。
その答えはこれだ、偶然。
そこで早速試してみる。デジカメで乱射。これはどうだ?
これをまともに構えて撮ったら、何の面白みもない。
ブレた画像。うまくトリミングすると使えそう。
描きなぐったデッサン、飛び散った絵の具、同じような発見がある。
偶然にはノーマルに制作したものに比べてより自然な感じ、自由さがある。
ここで問われるのは選択眼。そして演出のテクニック。

英語にはspontaneousという言葉がある。
自然発生的な、のびのびした、巧まざる、自然に起こるなんていう意味で、この考え方は芸術では重要なファクターだ。
即興や偶然にこのスポンテイニアスを加えると現代芸術を理解できる。
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天気が良すぎる。陽射しが美しい、
それも連日。もったいない、憂鬱な時の為にとっておきたいくらいだ。
ま、自転車で快適通勤を楽しんでいるから、いいか。
安川に沿う通勤ルートも徐々に専用道や立体交差に整備されて走りやすくなったきた。
段差の多い街を走る人ならマウンテンバイクに乗らなくてはならないが、このルートなら細いタイヤのロードバイクでOKだ。
通勤では車、電車、バイク、自転車と手段を変えてメリハリを工夫している。何十年も同じパターンを繰り返せる人がいるけど、俺には考えられない。
といいながらも同じ職場に通ってる。
決して中身は同じじゃないけど学校ってあまり変化しないところだ。
だから時代に取り残されているだけど、まだ、学校をやってる、やれてる、でもいつまで?

変化が無くて、ずっと同じってこと、どんなことかな。
例えばネコ。同じキャットフードを食べ、寝てばかりいる。
例えば終身刑の牢獄。

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卒業生の結婚式に出る。実に久々。
模造教会での挙式。オルガンと讃美歌。青空に風船を飛ばす。どんな意味があるの?

披露宴の開かれたホテルの窓から、戦後を思わせる家並みの中の、驚異的に電線がもつれたスパゲッティ状態の木製電柱を見る。
しかし、その印象は写真に写っていない。大判カメラの再現力が必要だ。
取りあえずスケッチ風に手を加えてみた。

しがらみだらけの人生だけど、世の中なんとかなるという感じ。これで機能しているのだから立派なものだ。

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上村松園を見る。
盛況。すごい人気。美人画。良家の子女。テクニシャン。構成力。これこそが絵画。
すべてにおいて「現代芸術」の対極。
かといって人を思考から遠ざける安直な娯楽ではない。ハイレベルな芸術だ。

その後、キャパの写真展へ。ここも満員。
狭い会場で息苦しい展示。
「ヘミングウェーの時代を生きた実物だよな」とヨメさんと話していたとおりに、ヘミングウェーに息子のように愛されていたのだった。
「ちょっとピンぼけ」という気の利いたタイトルの原題は「Slightly, Out of Focus」の直訳。当時の映画の邦題が良く出来ていたので日本語の翻訳での創作を期待したのだが・・・。
I・バーグマンが愛人だったなんて。これでは長生きできないのも当然。


スイスからきた映像作家がデジタルビデオのワークショップをやるというので出かけた。
父がスペイン、母がフランスで本人は全くのスペイン風。4カ国語を話すが日本語はダメ。通訳がつく。
映像の基本をどのように教えるのかを見学する。
高校生2人大学生2人中国人留学生1人、そして最年長の俺。
10時から休憩をはさみながらも夕方の7時まで、延々と続くイラストを交えた解説をみんなが真剣に聴いている。
この集中力に脱帽!こんな人たちもいるのだ。
俺は眠気をこらえるため、さかんに質問を浴びせる。1年ぶりの英語のシャワー。

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以前に新しい自転車(ロードレーサー)を紹介した。
その塗装色について相変わらずウジウジと判断の失敗を悔やんでいたのだが、先日雑誌を立ち読みしていたら(ヴィンテージバイク特集)同じ色の自転車が載っていた。ハンドルのバーテープの色をベージュにしたら全くそっくりといってもいい。それが伝説的なイタリアの名車と紹介されていた。
するとどうだろう、自分の自転車が急にカッコ良く見えてきた。これにはショーゲキ。
自分の美的判断がこれほど安直に「権威」によって覆されるとは。

学生に教えたりアドバイスしたり評価する時、これまでに接してきた美術作品を根拠にしていることは、これまででも自覚していた。つまり何らかの権威を根拠にしているわけで、ものわかりが良いということも、幅広く知っている、鑑賞してきたということでしかない。

それにしても軽薄なものだ。これからは、流行しているならどんなにチンケなカッコでもする女の子をバカに出来ないね。
我々が作っている美術だって流行が過ぎればゴミの塊でしかないが、そんな考え方で暗くなるよりも
「流行っているからいいのだ」と信じるのが正しい現代の生き方なのだろう。

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東広島の白市で開かれていた美術展を見に出かけた。
殺風景な2号線を避けて裏の山里を走る道を選ぶ。
志和堀で時計塔が目にとまり停車。
「時間節約」とか「時ハ金」「定時励行」等という田園らしからぬ標語が掲げられている。
その周囲にはテッペンに瓦の小さな屋根を乗せた茅葺の民家が目立つ。
高速を使えば広島から30分もかからないところに、これほど茅葺の民家が集中している。
意外だったので帰宅後に調べたら知る人ぞ知る所だったが、何度も通っていたのに気がつかなかった。。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/koso/l_kayabuki2003_now.htm

山里の集落は稲刈りと運動会で人の姿が多い。
白市への道をとても親切に教えてくれた中年女性は、これまでに道を尋ねた無数の人々のなかでも最高と思えるほど上手に説明してくれた。
車に戻ってから考えたことだけど、的確に道路を教えるのはとても難しい。
教育の原点と言ってもよい技術だ。
その女性は小学校の前に立っていたから、校長先生だったのかもしれないな。

白市の作品展は、町の古い民家や神社を利用した展示で楽しいものだった。
でも俺は作品よりもその周辺に興味を持った。
鋳物を作っていたという家の蔵の扉
その向かいの、これまた立派なお宅の三和土(タタキ)
神社の手水鉢
タバコ倉の土床
もちろん、そこに関心を引いたということだけでも展覧会は成功したといえる。
作品が置かれていなかったら、目にも留めなかったであろうものだから。

環境的な芸術のキーワードが「異化」から「共振」にシフトしてきていることを感じる。
でも「やさしい」とか「共感」で生まれる芸術って、どうなんでしょうね?
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毎日、空が美しい。
雲の見本市みたいに、次から次へと流れていく。
こんな時に部屋に閉じこもっての仕事なんて、もったいない話だ。
夕暮れには雲の周囲にプリズムのような虹色が現れたりして,陶酔させられる。
でもこの写真には俺の感じたものが写っていない。
うす曇りの午後、ふと頭上を見上げたら絵のようなパターンの雲
しかし撮影した時に、この雲の面白さには気づいていなかった。

30年間、空の写真を撮り続けているけど、10月の空がこれほど楽しめると感じたことはなかった。
なぜか?
単に忘れやすくなっているのかも。
「今年ほど暑い夏は無い」と毎年のように老人は語る。同様に
「今年ほど美しい時は無い」と言いたいものだ。
実際に、美しいものは、美しいと感じている自分は今ここにしかない。
この空しさ、はかなさを深まり行く秋に味わう。

切ない。
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毎日の通勤路である安川沿いに彼岸花が群生している。
どれも白っぽくて綺麗には思えない。昔の記憶ではもっと印象的だったのだが・・・
この数日は帰りが遅くて暗くなった夜道を飛ばしていたのだが、久々に黄昏の時間にゆっくりと走ったら、この花がとても綺麗に見えた。
走りすぎながら何故かいな?と考え、ともかく引き返して眺めてみた。
なるほど、この暗さ。晴れ渡った10月の午後6時前ごろの微かな光。
20年以上も前のこと、秋休みという制度があったころに京都から戻ってくる時に、夕暮の西条辺りの田園に咲く彼岸花が印象的だった。あれはこの光だったのだ。
そうして見るとなんでもない川の流れも、奥深く幽玄の趣をたたえている。
これほど違って見えるなんて今まで意識しなかったことだ。
仕事帰りの車が行き交って周囲は騒々しく、落ち着いていられないが一年の中でも貴重な時間。大切にしたいものだ。