2000年秋頃まで
秋、夕焼けの季節。
西北西へ帰宅の道すがら、空を楽しむことができるのは、自転車の特権だ。
刻々と変化しながら闇の中へ消えて行く色彩には、どんなに鈍い人間でも心をひきつけられる。
なぜだろう?この郷愁は。
「あの人もこの空を見ているだろうか。」
鈍色の曇天を見ているときには、そんなこと思い浮かばないのに。
心に残るいくつもの夕暮れ・・・・しかし、狭い道と恥知らずなドライバーのために、それ以上の感傷に耽ることはできなかった。
何故か写真でも絵画でも、夕焼けを取り上げたものに傑作はない。
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せいたかあわだちそう、この草が好きだという人は、まずいないだろう。
それが いま花盛り。さすがに鬼も十八番茶も出花で、それなりの風情を感じないでもない。
いつも金網フェンスとセットで生えている。
さて、この泡立ち草、何故これほどまで嫌われるのか?
現代日本の風景を形作る代表的な植物として見直されても良いではないか。
なんてことを自転車で通勤してると考えたりするから有り難いものである。(ひょっとしたらオレが思考してるのはペダルを踏んでいる時だけかもしれない。それと朝方の布団の中か。)
「ペンペン草が生えている」というと非常に荒れた状態を指すが、今や泡立ち草をイメージしないとその様は想像できない。
カサカサのしみったれた葉っぱで、だるいカーブを描いてひょろっと伸びた姿は、容易には美化しようがない。その上、もし、この草をきれいに除いたとしてもそれほど見栄えが良くなりそうにないような、冴えない場所に生えている。べとっと大量の花粉がつきそうな、その花も花粉症の原因として言われなき汚名を着せられたことがある。
とことん嫌われるために存在しているような植物。
こんなのって人間社会でもありますね。
1910年代に北米から持ちかえられたときは、鑑賞用だったとか。
戦後、急速に広まる。都市近郊の荒廃と共に。
驚くことに、この草は他の植物の成長を抑制する阻害物質を発して、群生を拡大して行く。
アメリカに塗り潰されていく日本文化!不死身のエイリアン。
ここで、泡立ち草への哀れみは消失。ゾワッとする恐怖を抱く。
こんなこと知らない方がよかった。アメリカではどんな風に生えているのかねえ?
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満月の夜、中央公園を歩いてみた。
これが広島?
いつも、いい子にして職場と家の往復だけで、こんな風景を見逃していたのか。
やっぱり街がいい。もっと他にも探したい。Round
Midnight in Hiroshima
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ギターの弦を張り替えた。 2年ぶりぐらいかな?フレットの手垢を掃除してボディをワックスで磨く。
まずクラシックギターからナイロン弦を新しくする。34年もの長い連れ合いだ。テニスの後のビールが心地よく廻ってきて、ベートーベンの弦楽4重奏を聴きながらギターを膝にして居眠り。
次にエレキギターの掃除と張り替え。こいつとも22年か。今朝のFM、リトルフィート特集の録音を聴く。弦を少し太めのゲージに変えたからスライドには向いてるかもしれない。
好天の日曜の午後。久々に感じる安らぎ。おれは幸せだなと思った。
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この凡庸な写真のトリミングが何故やりすぎなのかという理由。
ここは都市近郊の殺風景な川土手で、遠くの道路からの騒音が絶えない。この雰囲気がどこかに残されていないと嘘になる。嘘でもいいのかもしれないが、視覚的な心地よさだけで切り取ってはいけないのではなかろうか?
写真を撮ることは世界の一部を切り取ることだから、最初からトリミングしてる訳で、それを再検討することがトリミングだ。
映画の場合は場面を作り人物を配置するので、絵画のように「構成」と考えた方が適切だ。
一般に「構図を決める」と言うとき、絵画の場合はcompositionで、写真だったらflamingを意味する。
こう断言すると、そうでもないケースが幾つも思い浮かぶ。「かもしれない」と「だろう」ばかりではカッコ悪いけど・・・ともかく写真で構図をやたらとうるさく言うのは、なんか間違っている様な気がする。
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あっという間に稲の色が変わって穫り入れの季節になっている。
広告写真の背景にパリやロンドンの街角を発見するようになった。1週間ほどでも自分の足で歩き回った街からは、すごくたくさんの情報を受け取っているのだろう。舗道と並木が写ってるだけで、時には壁だけでも、どの街なのかが分かることがある。
以前から僕はこういう推理が好きなのだ。昔のチャンバラ映画は京都での撮影が多かったから、どの寺のどのあたりかを探すのが楽しい。ロケ地の選定は専門家がやってるのだが、良く知ってるなと感心させられる。
自分の観察力を自慢したいのだが、壁だけを写してもその場所を暗示できる、そんな映像を撮った人たちは偉い。また、何処をとってもオリジナリティーを発揮できる都市は素晴らしい。
ところで写真ではプリントのときに、不要なところをカットして構図を再検討する。これをトリミングと呼び、重要な技術のひとつになっている。
あれこれとトリミングを考えるだけで、映像のセンスがぐんと向上するので、やってみたら。
無限にバリエーションが存在するので、わからなくなってくる。どのような尺度で取捨選択すればよいのか?
迷っている貴方は哲学し始めているのかもしれない。
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来ましたねー、午後1時30分、グラグラッと。
神戸のとき以来の強い揺れ。カップから紅茶がこぼれそうになり棚の額縁が落ちかけて、こりゃやばいなと避難場所を探す。机の下の狭い三角スペースしかない。模様替えする前まで広かったのにな、しまったな、今はともかく屋上からの落下物を防げばいいのか・・なんて思ってるうちにおさまってくれた。
終わってみるともうちょっときつくてもおもしろかっただろう・・という余裕が生まれたけど、あれがさらにドドーンと来たら神戸みたいにグジャグジャになって6000人も亡くなったりする。
おおきな被害が無くてなによりだ。学内が一挙に活性化して、みんなの顔つきがいい。
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秋祭りのシーズンになってきた。あちこちに幟が立ち、夕べには太鼓の重低音が響く。
始めてみたときには、とても驚いた。早いテンポの太鼓と歌声にひかれて神社の階段を上ると、舞台ではギラギラ装束の踊り手が旋回している。
東南アジアの楽団がやってきてるのかと思った。すごいショック。
いまでもエキゾチックという感覚で見ている。老若男女みな楽しんでるのがいいね。
広島ってスゴイところだ。
広島名物のひとつは石垣だろう。このことも広島人はあまり意識していないかもしれない。
あちこちで石組みを鑑賞して楽しんでいるのだが、これも補修するとなると、上からブロックを重ねてしまうしかないようだ。残念。
また樹木が成長して根を張ると崖崩れの原因になるとかで、やたらと木を切る。急傾斜地が日本一多いところだから仕方ないけど、「大きく育てられない」ことは悲しいね。
太田川を上流にかけて走ると味わい深い石垣に出会えるので注目してみて。
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ここに書いたロンドンパリの印象が朝のFMラジオでも流されていて、「聞きました。」というメールをいくつか受け取っている。
ぼくは一度も聞いてないけど、パン屋さんの宣伝になってるみたい。
旅行に行って日本食が恋しくなるということはないのだが、あれだけたくさんの西欧美術を見ると、さすがに飽食する。
先日、東京出張の折り、根津美術館 に寄って茶道具や中国古代の銅器、ガンダーラ仏などの展示で胸のつかえを晴らしてきた。数年前にイタリアに行ったあと奈良京都を回ったのだけど、そのときにはイタリアと日本の共通性が印象に残った。日本画の連中がよくイタリアに行ったり、イタリア大好きおばさんが多いのも当然なのです。
で、今回は仕事もからんで東京だった。
本当の狙いは東京都庁だったので、いろいろやりたかったけどデジカメが突然電池切れ。夜で売店も無かったので(ギンギラの新宿駅前から、かなり遠い。)画像はありません。
結論はイタリアのシエナの市役所と広場に酷似しているということ。べつに特許があるわけでもないからいいけど、本家に充満する暖かさが皆無。疎外感ばかりの建築が日本に広がっている。
しかし、こんな大きな話しは取り上げない方がいいだろうな。
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パサージュ(アーケード)と同様に、公園も都市構成の基本として世界に広まったけれど、ロンドンのような大都会に広大な公園が都心に存在していることは奇跡的なことだろう。
リージェントパーク、ハイドパーク、グリーンパーク、セントジェームスパークと歩いてみたが、まるで郊外のようで、湖には鳥が遊び木立からリスが寄ってくる。
ストライプ柄のデッキチェアが並べられているが有料で一日券、1月券などがある。もちろんベンチは無料で、なかにはこのように素晴らしく座り心地の良いものがある。
これなら何時間でも読書などして過ごせそうだ。
園内にゴミはなくトイレも清潔だ。相当な手間をかけて暗緑色の制服を着た職員がメンテナンスをしている。
市内には、各所に****スクエアという公園があって人々が日光浴をしたりサンドイッチをほうばったりしてる。どの公園にも何百年かと思われるような巨木がいっぱいあって地上近くまで樹枝を伸ばしている。ちょんちょん鋏を入れて樹形を整えたりしない。これが英国式自然庭園といわれるもので、湖や林をいかにも人の手を加えず昔からありましたという風に作る。
かたやフランス式は左右対称構成で樹木も三角形に刈り込む幾何学式庭園である。
度量衡から自転車チューブのバルブまで、両国はいろんな所で互換性のない規格、異なるアイデアで対立しているので、意識しておくと楽しい。(英和辞書でFrenchを引くとびっくりする。仏和の
Anglaiseでは角の立つようなことは書いてないけど。)
ここで言い訳を少し。幾何学式庭園については、できればベルサイユの庭園を思い出してください。Webは著作権がきびしいのでオリジナルで通しているが、文章に適切な写真が無いことも多い。また肖像権の問題でヨメさんの写真しか使いにくい。そんなことで専門の絵画についても話しにくくなっている。
ロンドン郊外のキューガーデンが英国式自然庭園の典型だということなので訪れてみた。なるほど美しいところだけど、田園から都会の公園までこのスタイルが浸透して、すっかり第2の「自然」になっているので庭という気がしない。
水鳥たちはいくら近づいても逃げない。こんな習性は何世代くらいかけて作られたのだろう?鳥の写真を撮るのにいつも苦労しているのが嘘みたい。
温室は英国人の博物趣味が発揮されて充実したものだ。これまた元祖植物園なのであって、鉄とガラスで世界が変わってから200年も経ったのかと、しみじみしたいがこれはまだ100年!で新しい。
ここの端っこには中国式の塔や日本の門があって、?と戸惑うが、なんと西本願寺唐門のコピー。これは実家の近所で僕が子供の時から青年期までいつも歩いていたところ。こんなところで久しぶり、でした。
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都市のシンボルとしてパリのエッフェル塔、ロンドンのビッグベンほど良く知られたものはない。しかし、街を代表するキャラクターというと、ロンドンは公園、パリならパサージュになるのではないか。
ところでこのパサージュ、聞きなれない方も多いことだろうが、これである。
なんということはない、本通りをはじめ日本中にあるあの屋根つき商店街のことだ。でももう200年近い歴史があるのだから驚かされる。これを英語でアーケードと言ったら、すごく身近なものになるよね。
実際ロンドンにも同じくらい古いものが幾つか残っている。(この両都市はとことん張り合ってるから。)それをイタリアではガレリアと呼ぶ。(ミラノにあるものはとても大きいそうだ。)
ちょっと気障だけど、フランス語でパサージュというと独特の風情が出る。「ロンドン、バーリントン・アーケード」だったら敷居が高くて入りづらいけど(ホントに高級な店が多かった)」「パリ、パサージュ・ジェフロワ」なんていうのはケーキ屋さんみたいで気楽にのぞける。そう思わないですか?
もちろんここにも老舗はいっぱいあって、それなりの格式をもって営業しているようだけど、ファンタジックなミニチュアハウスやおもちゃをいっぱいに集めた店とか奇想天外な装飾のステッキ屋さんなど子供心に響くような魅力にあふれている。
パサージュはご覧のように狭い道路に金属とガラスの屋根が架かっている。
そのデザインがそれぞれに独特なのだが、写真からも伺えるようにどのパサージュも人通りは多くない。場所によってはとても寂れていて、老人による老人のための店や閉めたままの店が多い。
この様子は田舎町の古い商店街の衰退を思い起こさせる。車社会で消費スタイルが変化したのだなと考えていたが、なんとこの衰退は今に始まったことではなく150年前から続いているという。
(中公文庫、「パリ時間旅行」による)
19世紀の半ばに、これも世界初のデパートがパリに誕生して客を奪ったという。日本では西欧化の波と共に一挙に近代が持ち込まれたので、このような経過がわからない。この街では時間がゆっくり流れているようだ。
現在の我々の生活スタイルの原型は、19世紀の西欧で生まれている。このことを2000年に確認しているなんて変だけどおもしろかったです。
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16日間というのは長かったけれど、ロンドンパリという大物が相手だから、まだまだ時間は足りないという気がしてる。
まず、デジカメのことから。
標準的な海外旅行は9日以内で設定されているが、僕のデジカメは、この期間内では充電しなくても使用できた。ただし、モニター、ストロボをできるだけ使わないとしての話であって、いつも電池切れを気にしながら撮影するのは息苦しいものだった。
26万画素のモードを主に使って撮影したけれど、これでは鮮明なプリントは得られない。あくまでもディスプレイでの鑑賞が前提となる。ビデオと同じ感覚。
時として画像圧縮のノイズで人の顔がグッチャになってしまう。この崩れ方がイヤな感じなのだ。人を撮るときは高解像度に切り替えるべきだが、この操作が結構面倒だ。またそれでは高価な記録メディアがたくさん必要になってしまう。
それでもプリントは欲しくなる。アルバムにして楽しめないのは、やはり寂しいものだ。
メリットは暗さに強いこと。現代作品以外の美術館では撮影が許可されていることが多いけれど、ストロボと三脚は禁じられている。暗い教会では弱い照明を頼るしかないが、こんな時にデジカメが威力を発揮する。
たまたま入った教会でドラクロワの壁画があった。夕方で真っ暗な堂内で鑑賞用の照明でぼんやり浮かび上がった絵を、椅子に固定したカメラでとらえた。フィルムだと弱い光ではノイズが多くなるけど、人間の眼以上に色を拾ってくれるので、手持ちでステンドグラスの撮影ができて重宝した。
旅行写真の基本は、名所に本人が立っているという構図なので、撮ってもらったり、撮ってあげたり気楽に写せるものがいい。総合的に考えると、今しばらく旅行にはフィルムカメラを使った方がいいでしょう。
今回この一枚、として選ぶならこれ。知る人ぞ知るバタシー発電所(跡)。
偉大なロックグループ「ピンクフロイド」のアルバム「アニマルズ」をご存知かな?
そのジャケットで使われたのが、ここです。
子供の時から工場建築が好きで、とくに煙突には強く惹かれている。このジャケットを見た時には痺れた。
5年前のイタリア旅行の途上、ロンドンに立ち寄ったとき、ヒースローに着陸する前に街がよく見えたので何枚か写真を撮った。旅行のあとで写真を見ていて4本煙突の巨大な建物が写っていたことに気付き、こんな所にあったのかと驚いた。3年前にロンドン市内を回ったときは余裕がなくて行きそびれ、ようやく今回間近でご対面できたのであります。
ハロッズデパートのあるナイツブリッジからチェルシーへ向かうバスに乗っていたとき、イギリスらしからぬ激しい雷雨になった。こりゃ撮影どころではないな、と思われたがバスを降りる頃には小降りとなって、何とかシャッターを押すことが出来た。あと1時間ほど粘っていたら雲が動いて夕方の光が真横から煙突を劇的に照明してくれただろう。そうするとこの巨大さ、崇高さが表されたのだが・・・
この写真では、その方向へフォトショップで修正しています。
2枚目を、と言うならこれかな?
なんじゃ!と思われたでしょうが、私の女房です。
パリの市立近代美術館には訪れる人も少なく、ゆっくりと今世紀前半の秀作を味わうことが出来ます。ここの現代美術コーナーに10畳ほどの球体の小部屋がおかれている。内部は白い光とキュワーンという電子音が充満していて、「2001年宇宙の旅」のシーンを想起させる異次元を体験できる。
光が全面に散光しているので陰影が弱まり、凹凸(つまり皺)が見えなくなる。そこでヨメハンを見るとなんと竜宮城か、20年ぐらい若返っている。そこでパチリ。
理想的なスタジオ照明になっている訳で、あらためて光の重要性に感じ入った次第。
3枚目は、この「どこにでもある風景」です。
ロンドンからユーロスターに乗って、どこかの工業都市に停車したのかと思ったらパリだった。
両都市の間ずっと田舎が続いていた。フウーム、東海道なんか街が続いて田舎がないのに。
僕は京都駅のすぐ近くで育ったので、遊びに行くといえばいつも駅の裏の保線区や機関庫だった。
無数の線路に、絶え間なく出入りする列車。生活をむき出しにした住居の裏面、錆色とペンキ。
「しょうむない風景やなあ、せやから撮ったろ」そんなことをつぶやきながら撮影した。
時々夢に見たりするのは、このような「なんでもないつまらないところ」が多い。エッフェル塔や金閣寺を夢見る人もいるかもしれないけど。
4枚目はこの落書きビル。
証券取引所などがあるパリのかなり中心部に、スポイルされた建物があってよくもここまで描きこんだものだと感心するほど落書きが書き込まれている。
パリやロンドンの鉄道沿線の壁は隙間なくこの手の落書きで埋め尽くされている。なかには技巧的なものもありスプレーを買い揃えるのも安くはないし、本気でやってるのだろうな。
でもこの10年ぐらい様式は固定してきているので、新鮮味が感じられないな、などと美術教師はいつもの癖で批評しているのであった。
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日差しが鋭い。影が印象的な毎日です。
21日から9月の5日まで、ロンドン・パリ美術研修旅行で不在になります。
旅先からHPを更新できるようになりたいのですけど。ま、しばらく、お休みということに。
さて海外旅行といえば写真です。
もう二度と来ることはないかも・・という想いがシャッターを切らせるのか。ともかくたくさん撮ってしまう。
人の記憶は頼りなくて、つまらない写真でも旅を思い出すきっかけにはなる。
訪れたという証しとしてアルバムに貼り付け何度も味わう。
でも、これに付き合わされた人は悲劇。だれでも覚えがあるはず。
ともかく旅では、いっぱい撮る。
そして分厚いプリントの束がラボから返ってくる。ここからが問題だ。何十年も生きていると、とてもアルバムに貼ってられなくて、家中が未整理の写真だらけになっている。
あのアルバムというシロモノ。あの厚さとサイズ。何故あれほど不合理にできているのだろう?
この20年間に日本中で「捨てられないけれど残すほどの価値もないもの」が蔓延したけれど、この代表に写真が成り下がっている。
50年前、写真は貴重品だったから撮影する時の気迫や所持する人の思い入れが画面から発していたものだ。
すごく安価に安直に撮って、どうでもいいような写真を整理できないでいる。
長生きはしてるが、質と密度を失った現代の人生と同じように。
今度の旅行では、デジカメで撮ってみようかと考えている。
その理由
最近デジカメを買ったから。
3年前、ロンドンではたくさん写真を撮ったけれど、やはり「使える写真」は自分で暗室作業ができるモノクロになる。それがこの3年間の驚異的なパソコンの進歩でカラーでもやれるようになってきた。
こうなるとデジタルです。いろいろ難点はあるけれど・・・。
ということで、またつまらない写真を撮ってきます。
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この画像は何でしょうか?
そう、いま話題の映画のシーンです。映画は反射画像なのでテレビよりもかなり暗いものです。デジカメなら写るかもしれないとシャッターを押してみたら、鮮明ではありませんが撮影できていました。
これはテレビです。テレビは発光しているものなので十分な光量が得られますから、普通のカメラで撮影できます。
ただしシャッター速度が15分の1以上では大きなノイズが映ります。とか言っても手動で操作できるカメラなんてほとんど無いのだけど。
いまデジカメの実験をしていて、いろいろな状況で撮影している。
デジタルカメラはパソコンの普及と並行して、近い将来にフィルムカメラに取って代わる。
写真術は50年前に完成してしまったということもできるし、デジタル化は品質の向上でなく性格の変化なので、同じ延長上で優劣を論じても無意味だろう。
コンピュータとの結合によって、ますます写真は絵画のようになっていくので(想像力で変形される)いよいよ「写真」という名称を変えざるを得なくなってくるだろうな。
従来のカメラは版画のようなものになってしまうかも・・・・・