パソコンを買った。夢と希望にあふれたデザインの・・・。
総計が21万円。この21が好きな数字で、すぐに21世紀だから決めた。
3月7日生まれで3と7が当然大好き、そして3x7=21
車のナンバーも3773だし。家を買った時も3億7千万だったような?
こんなことで嬉しくなるものなのだ。
昔、西欧で数秘学というものがあって、ピタゴラスが元祖にされているが、ここから入ったら数学嫌いが少しは減るだろう。ソロバンや九九から始めるのはいけません。
年末で部屋を掃除していると、出てきますね懐かしの品々が。
今回は小学校1年の絵日記。
うまいなあ!まず自画自讃。
あの頃のこと何も覚えていないのに、この絵を見てると思い出されてくる。
父親と自転車で出かけたときのこと、京福電車が曲がるときのコオーッという摩擦音。
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ジョギングの男性に放火
この記事に戦慄。
先日、真っ暗な夜道で人とすれ違ったとき、ガソリンをかけられ火をつけられるような気がして、畑の中に飛び込んだら消えるかな?とかいったことを想像したのだ。
金槌で殴りかかることなら誰でも考えるかもしれないが、こんなことが実際に起こるとは。
ときどき地獄のような光景を夢に見ることがある。
目覚めて現実でないことに安堵するが、いつもそうとは限らないとしたら・・・
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寒風の中、久々に自転車で街へ。
先日の反省からではなくて、女房が車に乗っていったからだ。
それと昨夜、食べ過ぎて腹が出たので締めておかないとズボンがすべて穿けなくなるという切実な理由も重なっている。
パソコンを見て回っている。Webで調べるだけでは寂しい。
通信販売全盛と言われてるが、買い物は自分の眼で見て手で触れて、迷って、値切ってするものではないか。
量販店を見て回っているといろんなデザインが比較できておもしろい。
いうまでもなくMacが群を抜いていて、あそこまで先鋭化すると部屋のインテリア全体の改造を迫られる。
価格的にも付き合えないが、さりとていくら安くても、こんなもの自分の部屋に置きたくないなというほどヒドイ物が七割ぐらいもある。
パソコン部品の流通形態から、各社とも価格と性能では差異をつけられないのだから、もっとデザインで主張してもらいたいですね。二十万近い金を出して、こんなものでは全然嬉しくならないぞ。
「夢も希望もないな。」
値札と性能表を見続けながら、そんなことを考えていた。
4年前Macを買ったときには、音や映像をつないだり逆再生したり多いに遊んだのに、職場のWindowsでは授業対応だから仕方ないが興奮を味わえなかった。
「夢と希望」か。
この臭い言葉がパソコン売り場では新鮮に響いた。
コンピュータとの付き合い方を改めよう。
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自宅で使ってるMacが壊れた。
ハードディスクのようだ。手を尽くしているがダメだろう。
なんとか騙してシステムもUpさせてきたのに。といってもメールを送信するたびにフリーズしていたから
寿命といってもよい。修理したとしても使い物にはならない。
4年少し。はかないものである。願わくば十分にリサイクルされますよう。合掌。
ということで、年賀はメールでという計画が危うい。年末ってなにか起こるものだ。車が故障したら手足をもぎ取られたような気分になるが、パソコンがいかれると仕事が何もできなくなると思えてくる。
自転車だとか、手作りだとか言ってるが、カッコだけですなあ。
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空想で山を描いてみると、なかなか本物らしくならない。
さらに3つも4つと山が重なっている光景になると、全く作為的な物になるだろう。
空に浮かぶ雲を描くときも同様だ。
雲が多くなるほど嘘っぽくなる。
だから対象を見て描かなければだめなのだ、という人がいる。
確かに見て描くと自然に近づけるし、写生は絵画の基本だと思う。
描くことに没入することは精神衛生上、とても良い。
しかし、絵画は眼に見えないものを描きだすことができる。
歴史的に見ても、想像で描かれた物の方が写し取られた物よりもはるかに多い。
「構成する」は英語でCOMPOSEだが、同時に「作曲する」という意味もある。
近代になって希薄になったけど絵画にとっては重要な要素だろう。
ブリューゲルの絵が好きだ。
実際の風景そのままではなく、いろんなシーンや人物が合成されているのだが、とても「自然」で、とくに樹木や岩山がうまい。
世界そのものが描かれている。
車窓からの眺めと同じように、いくら見ていても飽きることがない。
今、部屋の壁に掛けた複製を眺めている。(Webで紹介した絵とは異なるものだけど)
「干し草の収穫」、プラハから京都の美術館に来たときにじっくり味わった秀作だ。
ブリューゲルの一枚の絵からは、長編小説や物語集を書くことができるだろう。
他の代表作でとくに見たいものはウィーンにあって、日本にきたことはない。絶対に見に行くつもりで昨年、旅行ガイドまで買っていたのだが・・。
本物みたいに描くことは現在、それほど意味はないが、「バーチャルリアリティ」として、油絵の具でここまでのリアリティを実現していたこと考えると、人間のやってること、やれることは変わらないなという思いと共に、CGの発展がルネサンスの透視図法と油絵の具の発明と同じ軌跡をたどっていることに感銘を受けるのだ。
ここで紹介した絵画は
http://www.artchive.com/artchive/B/bruegel.html
にリンクしたものだ。
英語だけど、美しい画像が検索できる。訪れたい方はここから。
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学生が組んでおいた絵のモチーフに、ドキリとさせられた。
腐りかけたリンゴ、横たわる人形、逆光の深い影。
ヨーロッパ、だな・・。
画面の上、4分の1ほど切ってもいいが、怖すぎるか。そうなるとリンゴを少し上にあげないと靴の赤と並んでしまうか・・。
写真では何とも感じないことが絵に描くと気になってくる。
放置された無花果に絡んだツタ。
雑然とした光景だが、絵に描くと選択、関連付け、整理が行われるので、良いモチーフになるだろう。
手入れの行き届いた庭園など、どうしようもない。
廃園という言葉自体が詩になっていて、しびれるけど、そんな風情が今どこにある?
路上の落ち葉。
舞い落ちてきて風に吹き寄せられ散らばって行く。その過程は自然そのもの。人為が加わることはない。これを見ているだけで配置やバランスなど造形のセンスが養われるはずだ。
路上という単調な平面に展開する所が良いので、あまり剪定や清掃を頑張って欲しくないものだ。
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あと10日か・・・。
最近、口内炎がひどい。年に何度かこんなことがあって1ヶ月近くも悩まされる。
タバコを吸うと治るので、禁煙を止めたこともあるが、タバコの臭いが絶えられなくなっているので、それもできない。
睡眠と栄養だといわれる。かなりたっぷり摂ってるつもりなんだけど。
多分「口が悪い」ので罰が当たってるのだろう。病気や怪我のときはどこか罰せられているような感じがする。
インターネットで口内炎を検索すると意外に少ない。それとつい寄り道をしてしまう。いまのところ百科辞典に負けているな。それにしても病気っていろいろあって、流れ弾に当たるように遭遇してしまう。
どうしようもないことが、無くならない限り宗教は必要だろう。
さてさて一番辛い食事の時間が近づいてきた。なんとか笑って食べよう。
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クリスマスカードや年賀状。世界中でたくさんの人たちがデザインに頭を悩ましていることだろう。
授業の関係でいろいろ作っているけど、十二支や長靴といった定番のキャラクターは使いにくいものだ。
しかし出来映えは、それを使うかどうかよりは結局、構成と配色で、そして質感で決まる。
服装と同じだ。
ファッションにしても、日頃から洒落た感じを意識して追求していないと、流行のパターンに合わせているだけになり、それ以上の工夫ができない。
でも、カード類のいいサンプルが見られる所ってどこだろう?
こういう情報は女の子が一番良く知っている。だからカード作りはうまい。とてもかなわないな。
ともかく、というかもちろん、
最高のカードにはなるには、そこにハートフルな言葉がなければならないから、僕はこれに賭けよう。
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通勤途中に、太田川畔で野鳥を撮影した。
パソコンで開いてみたら全部ピントがぼけている。
マクロモードを解除しなかったからだ。チクショー、全部ダメ、撮りなおしだと消去しかけたが、
なかなか良いではないか、このボケぐあいが。
少しコントラストを強く、彩度は下げて渋く演出する。針穴写真みたいになってくる。
こうでなくちゃおもしろくないね。目的まっしぐらになると途中にあったいろんな可能性、楽しさを見逃してしまう。
絵を描いていると、いや描いている人を横から見ていると、しばしば感じることだ。
よそ見をしたり、偶然の出来事を肯定的に考えてみること。
少し話しは飛ぶけど、女の子の苦手科目が社会系であることと、彼女らが、旅行の車内ですぐ文庫本を開いて窓の外を見ないことは関係が深い。
ボケーッと見てるだけでも莫大な画像情報が脳内に送り込まれていて、これが何となくわかってしまうという能力を生む。
オレはケチに加えてヒマなので旅行はもっぱら普通列車だったから、子供たちは勉強になったはずだ。
本を読めという前に、周りを見なさいというべきだろうね。見学に行ったところは今でも全部覚えているから。
この反対に英会話は圧倒的に女性だ。男は(日本の)オープンに話す習慣ができてないから英語云々以前からダメなんですね。つまり、学校以外で学ぶことはとても多いということです。
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画像がないと寂しいので、秋の落ち葉をどうぞ。
忘年会シーズンであるが、禁酒中なので出ない。最近は禁酒でなくても行かない。
だいたい会費が5000円ぐらいになってきてから行く気がしなくなっている。
諸物価は下がってきているけど、公共交通、通信費、飲み代、映画、コンサートといったコミュニケーションに関わる料金は、相変わらず高い。
CD一枚買うにも悩んで考えて、当たりはずれに一喜一憂している俺には、余程の義理でもない限りこんな無謀な出費はできない。
ケチなのかもしれない。何を買うときも値札ばかり見ている。どこに値札があるかわかりにくく、ご丁寧にも裏返しにしてあるような洋服売り場には近づきたくもない。
タクシーに乗るのが嫌なのは、あのメータの数字の上昇が心臓を圧迫するからだ。
いつも自転車に乗るのは電車代を払いたくないからである。
ケチなんだろうな。それにスケベが加わったのがフランス人だそうだ。
おれはパリに住むべきだろう。
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100円の古本が「当たり」だったので近所にある同じような店をのぞいてみた。
「人生に必要な智恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ。」というスゴイ題名。原文では「知らなくてはならないことは幼稚園で学んだ」となっている。
このホームページと同じくらいにつまらないものだったけど、アメリカ人のしみじみ観が伺える。それと、みんながわかっていることをいまさらのように言うことで「大きな共感、賛同」が得られるものなのだ、ということがわかった。
「みんながわかってること」とは何か?それを見つけることがベストセラーの秘密だ。
世間的な成功はすべてここがキーになっている。だから個性的になろうなんてしないほうがいい。
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毎週のように市内に出ているのだけど、紙屋町を歩くのは久々だった。
オフィスデポのあとが古本屋になっていて、並んでいる本の半分ぐらいに100円の値札がつけられている。
やれやれまた「100円」だ。どうやら「100円」というのは、「どうでもいいようなもの」を意味する言葉になっているようだ。
帰りの電車で読むために「われ笑う、ゆえにわれあり」を買う。
しかし、こんな大きな古本屋がやっていけるのだろうか?
企業はそれなりにマーケティングなどして進出を決定しているのだろうけど。
広島に長く住んでいると、関東や関西への異常な人口の集中に呆れるようになる。
この反対に「あちら」では政令指定都市、中国地方の中心、広島ということだけで「そこそこ大きな都市」と思いこんでいるのではないか。
たとえば東京や大阪周辺の都市駅前と広島駅を比較しても、密度、活気、流動性などで格段の違いがある。(数字ではどうなるか知らないが、そう感じられる。)
いくら大きなビルが建っていても、人が歩いていないところは街ではない。
このあたりも本通り以南は人影も少ない。
ということで、この店も永くはあるまい。「あの本を買おう」と思って古本屋に行く人はない。何となくヒマという人種(文化形成に必須の人たちなのだけど)が広島にどれだけいるか。
店の奥にはCDもあり、だいたい950円ぐらいの価格になっている。本より10倍もいいものなのか?CDなら近くのHMVでは輸入物を1500円で買える。1枚だと1780円が2枚では1480円になるというやつ。
この日もエラ・フィッツジェラルドのボーカルをジョー・パスがギター一本で伴奏しているアルバムを買おうとしたら、すぐ隣にブロッサム・デアリー(ピアノ、ボーカル)とあってジャケット写真にひっかかる。
アメリカン・グラフィティの脇役に出てきそうなキャラクターの眼鏡女。
ジャズという雰囲気ではないがバックはレイ・ブラウンとジョー・ジョーンズだから、そこそこの音は期待できるだろうとついでにもう一枚となってしまった。
やはり、こういう買い方はいけない。スラックスを買ったときにも同じ様な失敗をしているのに。何が欲しかったか忘れてしまうのだ。
CDはそれほど悪いものじゃなかった。2曲目のLover
Manなんか気に入ったけれど、チェット・ベイカーみたいな甘チャン路線(1950年代はどうしてこんなのが流行ったのだろう?)を容認するのは、自分の趣味への裏切りみたいな気がしてくる。やはり、カサンドラ・ウィルソンにするべきだった。
エラとジョーの共演は文句なしに素晴らしい。ずいぶん前に「ジョー・パス ギター教本」を買って練習した(しようとして挫折した)ことがあるので、この地味な演奏の深さがよくわかる。街頭に放り出されても食っていけるのが本物の芸だろう。俺には何がある?
ところで古本「われ笑う、ゆえにわれあり」はすごく面白かった。これで一日の帳尻は合ったと安心してる馬鹿なオレ。
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真っ暗な堤防沿いの道を自転車で走りながらラジオを聞いていたら、「夕されば 野辺の秋風身にしみて 鶉鳴くなり深草の里」という和歌が。
通信講座高校古典の時間だったのだ。
京都、深草の丘陵風景が浮かんでくる。
続いて「志賀の浦や 遠ざかりゆく波間より こほりて出ずる 有明の月」
冬の琵琶湖岸を自転車で走りたくなる。新古今和歌集、渋い。
星月夜だった。きれいに星が写ってるのだが、見えるかな?
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1週間が過ぎた。
今朝は自転車が冷たかった。でも俺の姿は熱かった。
いつもと違うことは・・・・・・。出前授業で或る高校へ行って、TVに写った。
二分ぐらいのニュースを見ていた人が少なからずいたことに驚いた。
快晴が続いてテニスをするとしっかり汗ばむほどだけど、室内でじっとしていると冷たい。
ストーブを焚くまでもないし、頭が痛くなるのも嫌だ。暖房具のカタログを見て興味を引いたものを真似てみる。
小型の電熱シートを寝袋の底に敷いて、腰まで中に入る。これで机に向かって本を読んだり。パソコンを打ったり居眠りしたり。15Wぐらいなのでとても経済的。21世紀はこれだ!
しかし、本棚までいくのに出るのも面倒、にじり寄って行くのも難しい。車椅子になるか。
阿武山に登った。意外にも急坂が続いて、厳しかった。
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快晴の朝9時半、FMのラテンを聴きながら自転車で出勤。カルトゥーラというアーチストの特集をやっている。サンバの軽快なリズムで調子よく走る。
電柱のワイヤーに巻きついた葛が、冬日に照らされている光景に眼を引かれながらも、走り去る。この光と角度、今しかないのではないか、昼までに行けばいいのだし、何を急ぐことがあるのか?
そこでUターン。このごろ、ツタとくに葛(クズ)が気にかかる。
伊藤若冲を見てから、俵屋宗達の地味な襖絵、葛図を思い出している。
いまでも、セイタカアワダチソウに並ぶむさくるしい雑草の代表として、はびこっているこの草をどんな思いで描いたのか?
西欧画では絶対に取り上げられないモチーフなので、学生のときから気になっていた。
いま、百科辞典を引いたら、なんとクズは北米にわたって全土に蔓延し忌み嫌われているという。そうか、世界中がクズとセイタカ・・だらけになってるのか。
それが、つい最近から美しく感じられてきた。どうしたことかと思われるほど感受性が変化してきている。
21世紀の無味乾燥と殺風景に、先手を打って適応しようとしているのかもしれない。
それにしても、カルトゥーラの歌声は、秋の陽射しのせいなのか、切ない。
人生はすごく短いんだ。ポルトガル語だからさっぱりわからないけど、そんなメッセージが伝わってくる。
再び, 通りすぎて引き返した光景。これはなんという植物か知らないけど。
光はすべてを変えてしまう。
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京都の紅葉なら東福寺が穴場だ、なんてことを先日書いた。
すみません、とんでもない間違いでした。真夏や年末に帰ることが多く、この11月の連休に東山を歩いた事なんてなかったのだ。
朝早くからたいへんな人出。シーンとして誰もいない寺という思いこみは見事に覆された。
また東山七条、国立博物館の伊藤若冲も恐るべき混雑。どうなってるんだ、京都は!
三十三年ぶりの秘仏公開というので清水寺に行ってみるつもりだったけどパス。
女房が昔に下宿していた、懐かしのポイント・八坂まで直行する。彼女がよく行っていたうどん屋で早めの昼食をと考えたが十二時まで開けないというので、石塀小路や付近の寺で時間をつぶす。
ここで長谷川等伯の襖絵特別公開に遭遇。淡々と枯れたミニマル水墨の世界とすてきな庭園。こんな静かなところもあったのだと救われた想い。
お昼になったので、うどん屋にもどってビックリ、長蛇の列ができている。
10人も入れない、さりげない店なのに、雑誌などで取り上げられたのか。
パリのブランド店に日本人が押しかけて地元の顰蹙を買っているというのは、これだな。
知恩院から青蓮院を抜けて三条角のうどん屋で昼食。
京都に行ったら、まともな出汁のうどんをという女房のこだわりだ。ここも10数人で一杯になるような小さな店だが味は良かった。有名になったりするなよ。
でも客の半分は白人だった。まさかミシュランのガイドブックに載ってるんじゃないだろうな。
あたりまえのものが特別になっていく。広島で最近入ったうどん屋はどこもJポップなど流していて、それだけでこの店はアカンなとわかってしまう。
誰かまともなうどん屋を教えてください。20年以上も、この話題はいろんなひとにぶつけているけど、まだ見つけられない。
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紅葉が美しい。この1週間、そんなことばかり感じていた。
これまでにはなかったことだ。どうしたのかな?おれも秋なのか?
ふらあっと、どこかへ行きたくなる。
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日曜日が推薦入試で出勤だったので、きょうはのんびりしよう.。
まずは音楽でも聴きたいが、自室のCDプレーヤーはディスクの読みとり装置が不安定で一発で作動したことがない。
とくにクラシックがダメで、まずポップ系のCDで動かせてからディスクを入れ替える。一曲の長さが関係しているのだろうか。いつもイライラさせられるので買い換えようと思うが、手順を踏めば問題なく動き始めるのでそのままになっている。
今朝はブラームスを聴きたかったのだが、まず若手ブルースマンのJ.ラングで景気よく始めた。
昨日気になった「デッサン力と知力の関係」についてあれこれ考える。
西欧の透視図法的な描写だけがデッサン力ではないけど、評価の基準がここに置かれることが多い。
客観的であることと透視図法が同一視されていて、観察力があればそのように見えるはずだと信じている教員は少なくない。
客観的な観察力があれば、当然学校の成績は良いはずだから絵のうまいひとに馬鹿はいないということになる。
この論理は前提が間違っているので、もちろん誤りである。しかし、美術大学の出身者で固まった私の職場では暗黙の了解になっているように思える。
もっとも他学科の教員からは、常識はずれで学問とは無縁の集団と見られているのだが。
それにしても何故ルネッサンスの大画家たちは、あのように大仰な装置を使わなければ透視図法を完成させられなかったのか?という疑問が起こった。
その装置のイラストを求めて書棚からHECKのThe
Complete Encycropedia of Illustrationを取り出す。この本とは20年以上の付き合いになるがこの膨大な図版は誰が描いたものだろうかと、始めて序文に目を通すが、見慣れない単語がいくつもあって、英和辞書へ。
ここで「頭が良い、悪い」という言い方は英語でどのように言ってるのか?と和英辞書へ。
確かに日本語の「良い悪い」は用途が広すぎるので行きすぎた連想を引き出すことがある。例えば、「姿勢が悪いから、頭が悪い」とか「育ちが良いから、性格が良い」といった言い方はBadとGoodだけでは英語にならない。もちろんこの反対も、英語で考えるが故の誤りも存在するだろう。
ほんとに人間は言葉でしか考えられないのだろうか。そんなことを言葉で考える。
ようやくCDをブラームスのチェロソナタに。なんという密度。名曲、しばし耳を傾ける。
彼の生涯がどのように紹介されているか百科事典を引いてみる。
「シューマン亡き後のクララとの友情は有名」とある。この「友情」はさかんに詮索されていて、クララの子供たちがすべてシューマンとの間に生まれたかどうかを探ったものまであるそうだ。
すべて作家論というものにはこの種のアホらしさがあるけど、これは惨めだな。人は細々とした記録を残すものだが、研究者はそんなものを掘り起こすことが無益なこととは思わないのか?
百科事典にはフランクやプーランクといった音楽家の名前が並んでいる。「フランクには大作はない」という記述にひっかかる。
大作?なんのことか音楽で大作とは。音楽のことはよくわからないが当時のフランス絵画は確かにでかい。ナポレオン時代の馬力が関係してる?それなら次は世界史だ。
啓蒙時代を開くと当時のグランドツアーの記述がある。ローマの見学には毎日3時間6週間の滞在か。冬のベネチアでドンチャン騒ぎ、楽しそう。
英国貴族の子弟は「悪の巣窟」である大学を避けて、イタリア旅行に何百万円もの金をかけたとか。なにやら200年前の話とは思えないぞ。
その挙げ句に「うろちょろしてきた低能はじっとしていた低能より、どれだけ偉いのか?」と皮肉られたりしている。こりゃおもしろい。
とか言ってる間に昼になり女房がテニスの練習から帰ってきた。
午前の3時間をこのようにうろちょろして過ごした。この気まぐれと中途半端が俺の人生の縮図だったりして。
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満月の夜、川面に写る月影を狙って街に出る。
月は天頂に登ってしまっていて画面の中に収められなかったが、暗い水面に踊る光が美しい。
しかしこの映像は、ちょっと鮮やか過ぎるのじゃないかと感じた。下の画像が「写ったもの」で上が調整したものだ。
これが異なるのは、あたりまえのことなのだけど。
写真を撮ることで自分が感じたものが「カメラに写ったもの」にすり返られてしまう。そんなことをいっぱいやってるのが「映像の時代」なのじゃないか?
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また月である。
これは寝床からの眺め。病気になってしまって、半日空を見て過ごす。
四時ごろにはもう月が出た。
この数年繰り返している胃腸からの出血。この二週間ほど、「秋の憂い」みたいな状態にあって、これではいかんなあと思っていたし、前回のページを書いてるときも自分がネガティブになってると、感じていた。
でも、翌日には職場に戻っている。しばらくは激しい運動はできないけど。
一昔前なら10日は入院だ。医学の進歩。内視鏡で調べて、そのまま処置してしまう。
直接の原因は一種の「イッキ飲み」だろう。何故そんなことをしてしまうのか?
自分の奥底を見つめなければならないのかな、でもそんなことをしたら何もかもメチャクチャになってしまうような予感がする。
多分、元気過ぎるのかも。
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どうしてもう少し回りのことを考えて運転できないのかなあ、と自転車に乗っていると思う。
たいていの車が暗いスクリーンを窓ガラスに貼っているけど、なんだ、ありゃ?
この頃の若者は変だけど大人もおかしい。くるっとるぞ日本!
そう考えると道路を見ても家を見ても看板を見ても腹が立つ。とくに郊外がメチャクチャになってる。
この光景なんかどう思いますか?
雑音を視覚化したらこうなる。ゴジラでも出現しない限り誰も驚かないだろう。この代表的日本の風景を否定することはできないのか。
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いつも休日はテニスばっかりで、たまには違うこともしてみたくなり向原近くの神倉山へ行った。
目当ての山帰来は皆無。最近ブームなのだろうか。取りつくされているようだ。
そこに見事なモミジがあった。紅葉真っ盛りである。
夕焼けと同じで写真に撮るものじゃないなと思いつつ、話のネタにと撮影する。
この山頂は、不気味に庭園化されているが、誰もいなくて荒れている。こういうものを作る人は、どんな人なのか、ちょっと怖い。
アメリカの砂漠で奇妙な庭を作って、ガラガラヘビなど飼ってるのを映画や写真で見たことがある。あれに似てる。
これを本格的にやると瀬戸田の耕三寺になる。市内の三滝寺もかなりやばい。
こういう環境で見る紅葉は悲しい。平安時代の流刑は軽い処罰に思えたが、当時の交通状況を考えると強力に精神的なダメージを与えるものだったのだろうな。
月末には京都に行くので、東福寺の通天橋で口直しをしてこよう。(ここは穴場です。人が少ない。)そのときに近くの国立博物館で伊藤若冲も見よう。
ご存知だろうか、この人を。
これまで僕が見た中で最高に鮮やかな色彩の絵画を描いた人だ。
きのう紅葉を見ながら、考えた。青空を背景に強い陽光に照り映えるこの赤い色が再現できるだろうか?きょう日本中で何万という人がシャッターを押しているだろうが、空しいことよ・・・。
こういう色彩への疑惑、弱気をぶっ飛ばす、ド迫力が味わえる江戸時代中期の画家です。だからホンモンを見に行かないとわからない。旅費を払う値打ちはあります。
帰り道、土師ダムへ。美しい。意外に人が少ない。路傍でセイタカアワダチソウを採集。
鑑賞用に輸入されたのだから、そのように見てみよう。
なんとなく危険なものが室内にあるという気はするけど、数日は置いてみる。
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11月になったのですっきりと整理した。しかしノートも取らずに配置換えしたのでうまく動くか?
猫が本を売りに来るという夢を見た。ギターの曲集を買わないかという話があって、玄関にいくと白っぽい猫が行儀良く座っていて、傍らに本が束ねてある。
解剖図なんかが載っているマニアックな英和辞書を手にとり、猫の向かって「May
I ?」とか英語で話しかけている。つぎの動詞がSee,Take,それともReadなんかな、わからない。
すると突然フランス語で200はドゥ・サンだったなとか思い出して。あいかわらず猫は姿勢良く座っているので、みんなで撫でまわしてやる。
それで、おしまい。