ホームページ開設から一年が過ぎた。
いろんなことがあった。10年間は、あっという間に過ぎたが、この5月も瞬時に終わろうとしているが、
一年を振り返ると、いろいろあったと思う。
いま15分ばかり、思い返していた。
もちろん、ここには書き込んだりはしていない。
人は様々な形で記録を残すものだし、
究極の秘密ですら、どこかに記録されている。
記録しなかったら秘密にならないのかも。
ミステリアスなものにしたいね。
ホームページも人生も。
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新しい音楽を聴きたいと思わなくなった。
最近しびれたのはアレサ・フランクリン。めっちゃ歌がうまい。それにもましてバックのサウンドがかっこいい。三十年なんて古いとかどうとか言えるほど昔じゃないのだ。
一方、本を読みたくなった。
久々だ。ぱっと目に入った「巨樹と日本人」という新書を買う。
地図帳を広げて位置を確かめながら読む。
日本には行ったことが無い所が、こんなにたくさんある。
いますぐにでも自転車を担いで旅に出かけたくなった。
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学生たちと一泊二日の合宿。芸北文化ランドに行ってきた。
ずっと雨。なにしろ旱魃でも雨を降らせるという必殺の雨男、H主任が同行していたので。
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金曜日。前後不覚になるまで酔っ払うという醜態を演じて、1週間が経った。
日頃えらそうなことを口走ることが多いので、時には恥ずかしいことも書いておかないと飽きられるかもしれない。
それに久々のことでもあり、二度とないかもしれないから。(どうだか?)
三十歳代の若手教員が多い懇親会だった。
こういう集まりが珍しくなっている。四、五十代とは勢いが全然違って,まずこれに乗せられてしまったというか、年甲斐も無く乗ってしまった。
滅多に行かない2次会にも同行して、ここからがいけない。
ああいう店って、グラスが空になりそうだと、どんどん注いでくる。それをそのまま飲んでしまうので、ほどなく閾値を越えてひっくり返ってしまう。
暴れたりしないが本気で眠ってしまうので、どうやって帰宅させるかでメンバーに迷惑をかける。
同僚はだいたいのロケーションを知ってるから,家の近くまでは送ってもらえる。
しかし恐ろしいことに何も覚えていないのだが、「この近くですから」とか、いい加減なことを口走って車から降りてしまうことがあるようだ。
ふらつく足取りで家に向かいながら、「どうして左半身が濡れてるのかな?」と考えていたことしか覚えていない。
どうやら近所の山道で降りて三時間余り草むらで熟睡していたらしい。
すべて推測であるが、メガネもバッグも無事なので夢も見ずに眠っていたのだろう。
さすがに二日ほどは自己嫌悪から脱け出せなかったが、喉もと過ぎればで、それなりに楽しかったなと感じ始めている。(だから、ここに書いてる。)
小さなテントを買って時々は野宿するとか。やってみようかな。
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子猫にベタ惚れ。
天使だ。
しかし、黒猫は写真を撮るのが難しい。シルエットの美しさをポイントにするべきなんだろう。
黒人を描く人間像でも同じことが考えられるな。
人種によって絵画観が異なるのは当然だ。子猫の成長を見守りながら、黒の美しさを発見していこう。
久々に自転車通勤。
よいものだ。物を考えるし,周囲を観察できる。
女房が、友人から軽四をもらったので、いつでも車が空いている。つい車に乗ってしまう。
いかん、地球はどうなる。
そういえば、また黄砂が降り積もっている。おそろしい。
中国が黄海上空で何かをバラまいたら?
昨日、風邪みたいな症状を見せている人が多かったし、夕方の会議では絶望的に深刻な議題が語られているのに、少なからぬ人達が居眠りしていた。
某国による陰謀ではなかろうか?
私も必死に眠気をこらえながら考えていた。
本日の自転車通勤で遭遇したもの。それは河岸にそって「懸命に」歩く老人たちの群れである。
あれはいかん、間違っている。
どうして何もせずにボケーッとしていられないのか。川面の漣や、風に揺らぐ小枝をぼんやり眺めながら、自分を空っぽにする。そして宇宙の塵として消えゆく覚悟を定めたいものである。
健康と長寿だけを求めていては絵画も音楽も、無い。遠からず死んでしまうのに往生際が悪いとはこのことだ。
若いときからせわしく働き続けてばかりいるから、無為になれないのだろう、と感歎しながら大学に着くと、二十歳前の若者が朝から路上に座り込んでタバコを吸っている。
どうして日本はこんなになってしまったのか。
某国による陰謀ではなかろうか?
心休まる間も無いのだが、ペダルを漕ぐあいだ聞いていたFMで流れていた、ジャズボーカルの歌詞が六割ぐらい理解できたのが救いであった。
「これまでは兄と妹、いいお友達だったけど、それもおしまい。今夜からは恋人よ。」とか「ブルーな心を隠すために街を赤く塗るの」という、えっ!ホントにやる気か?というような中学生でもわかる程度の歌詞だったのだけど。
それにしても何故「銀行はどこですか?」とか「きょうは暑いですね。」という英語が通じないのかな。
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子猫をもらった。毛足の長い黒猫だ。
息子がフランス語のノワール(黒)にかけて、ノエルと名づけた。
2年前まで、我が家にも猫がいた。思い出の多い猫だったから、もう飼いたくないと考えていたのだが、新しい猫がやってきて家庭の空気が一変したことに驚いている。
とても可愛い、のだけれど
はじめて子供が生まれたときのような、戸惑いを感じてもいる。
猫を抱く。安らぎとはこういうもの、家の中に女と書く。そう小学校のときに習った。(安寧小学校という校名だったから)
一方、心の中には不毛の荒地へ向かって進みたいような願望がある。
安らぎとは対極の生活を、かすかに求めている。
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連休中の雨を撮った。
ホームセンターで2種類の材木を50本買ったら、安い方の値段でカウントしてくれた。店が間違ったのだ。
得したなという感慨を込めて,そのことを嫁さんに話したら大いに軽蔑された。
それで昔のことを思い出したのである。
小学生の頃だった。
雑貨屋でナイフを買ったとき、店の人が間違って安く請求したので、誤りを指摘して「正しい価格」を支払ったことがある。
母親にそのことを話すと「バカ正直だ」と言われた。
母は商売人の娘で、何を買うにも値切っていたから「正しい価格」なんて考えは存在しなかったのだろう。1円でも安く手に入れるべし、なのだ。
母親だけでなく周囲の人たちの意見も同じようなものだったから、えらく損をしたのだと悔やんだものだ。
そこから俺は「歪んだ」のだろうか。
関西人はがめつい、と言われるが、文化の違いであって「正価」の無い国も多い。
Aさんには50円だったものがBさんには100円になっていたりする。
海外旅行で騙されたとか言われる事の中にはこんなことも多い。
生家の近くには東寺があって、そこでは毎月21日に大きな市が開かれている。
骨董と植木が中心で10万人もの人が訪れることもある。広い境内が出店で一杯になるのだから、今にして思えばすごいものを日常的に味わっていたのだ。
とくに骨董などは値が在って無きがごとし。一万円と言うものを500円で買ったこともある。
最近、行ってないな。
京都に帰りたくなるね。
毎月25日には北野の天神で同じような市が立つ。是非行ってみてください。
そんなことを思い出していると、別に俺は悪いことをしたのではないと自覚できる。
文化の違い。これは日本の中でも大きい。
とくに我々夫婦の背景は大きく隔たっているから、日頃から小さな誤解が生じている。
それが軽蔑にまで至ると問題はシリアスになる。
だから世界から色んな文化の人たちが集まってくるアメリカなんて大変なんだ。
以心伝心ということがないから、なんでも言葉にしないと通じない。
でも言葉にしたらはっきりしすぎて、かえって傷が深まるだろうな。
とくに男と女は幻想で維持されている関係だから。
こんど女房と買い物に行ったときに店員が勘定を間違えたりしたら、恐ろしいことが起こるな。俺はどうするべきなのだろう?
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自転車屋の店頭は、折りたたみ式ばかりが目につく。
どういうことか?
雨の日に電車に乗ったら、折畳式を持っている人は皆無だった。何故?
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アメリカハナミズキが目につく。
造花のようなどぎつさに、イヤだなと感じた。
とくにピンクの花は嫌いと言えるほど。
五月になったら一斉にツツジが咲き出した。
これも「いまひとつ好きになれない」という花だ。
世の中がギラギラと安っぽくなって、ますますツツジの評価は落ちてきた。
嫌いなものって他にあるかな?
車だったら、「ワゴン車」というやつ。欧米ではバンと呼ぶ箱型のもの。
それとバカデカイ4輪駆動。
写真,絵画、文学,音楽あるぞあるぞ、いくらでも。
わざわざ思い出して記録する気は起こらないけどね。
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「平然と車内で化粧する脳」という本を読んだ。
最近の若者の傍若無人ぶりは-さすがに俺も老けたのかとも思われるが、その動機や衝動が想像できない。
これに戸惑っている俺には,いますごく関心のあることなので買った。
こういう題名のつけ方は好きじゃないが、パンチはあるね。
脳科学の入門書として楽しめたが、社会問題と直結させすぎると、胡散臭くなる。また,わかりやすさを求めすぎると迷信とおなじことになって危険だ。
結論は、安直に西欧の生活様式を真似たところから、問題が生じているということだ。
真似しなくても、うまくやれたか。どんな選択肢があって、どこで間違えたのかまで追求しないと。
いろんな分野から、「奇妙な行動」について考えなくてはいけないと思う。
「安直に」対応すると、もっとひどいことが起こるだろう。つまりファシストみたいな連中が出て来たり。
テレビの影響もあるのじゃないかな。
どれだけアホなことをするかを競っているのだから。同じことを日常生活でやってるのだろう。
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青い空が描かれなかった理由。
これまでに見た絵の中で一番あざやかな青い空は
ロンドン・ナショナルギャラリーにあるティチアーノの作品だった。
そこで調べなおしてみたら、。
当時、ベネチアでしか手に入らなかった貴重なブルー(多分、ラピスラズリという宝石の粉末だろう。)を、広い空に塗り込められたのは、ヨーロッパじゅうに名声が鳴り響いていたティチアーノだけだった、という記述があった。
なるほど、19世紀に鮮やかな化学染料が発明されるまでは、ポピュラーな色ではなかったのだったな。
イエローオーカ(黄土)やバーント・シェナ(茶)は安くて耐久性も強い色だから、古くなると黄ばんでくる油彩画では基調の色彩になって印象に残るわけだ。
いまでも青はもっとも出しにくい色。印刷に出して常に落胆させられる色だ。
しかし、工事用シートの、あのブルーは強烈だな。もうちょっと押さえられないものか。
我が家の屋根ではためくシート。情けないものだね。
もうひとつ。
ヨーロッパでも菜の花が咲いていたとかなんとか、書いたことがある。
しかし河原に生えているのは、あちらが原産なんだって。
散歩道の解説板で読んだ。
知らないことばかりだな。
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木を一本描こうとしている。
さて、背景はどうしたものか?と迷って昔の絵を見ている。
光、空への感覚は歴史的にずいぶん変わって行くものだ。
ルネサンスの絵画に黄昏が多いのは何故だろう?
イタリアの天気は日本と似ている。夕焼けもあれば晴れ渡った空もある。
でも描かれない。
たそがれという日本語と黄昏の文字の関係は?
黄砂の国だからか、黄色にこめられた黄泉の国の意味からか。
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ここしばらく自転車での通勤が続いている。
騒音を避けて川岸に沿った道を選んで走る。
一気に新芽が開いて、毎日木々の表情が変化している。
とくに西原あたりの川岸がよい。
付近には高層のマンションがいっぱい建ってかなり町になってきているのだが、
写真の撮り方ではこんなにひなびた風情を強調することもできる。
以前はこのような切り取りは欺瞞に思えていた。背後の車の騒音も含めてとらえるべきだと。
だからゴダールの映画には共感できた。
年をとったのだろう。
こんな写真が撮れたと喜んだりしている。
ごく小さな部分でもいいから、肯定できるものを見つけたい。
懐古趣味であろうが保守反動であろうが、芸術的にきばることなく好きなことだけ好きにやりたい。
ウッディ・アレンの新作映画のサントラを聴きながら、そう考えた。
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息子が旅行に使った18切符が一枚残っていた。
有効期限の最終日、遠くに行きたいところが無いので、仁方、呉、河原石、廿日市、阿品、瀬野この6駅で下車して、近辺を見て回った。
ポイントはやはり地震である。
震源に近いから比例して被害も大きいだろうという想像は裏切られた。
俺の近所と阿品台が一番きつかったのじゃないかと思う。屋根しか見てないのだけど。
そのなかで瓦屋根でも無事なところは多い。しっかり釘止めしてあったのだろうか。
今度の修理を、どうするか考える。
今回は罹災証明も受けて、立派に被災者の一員だから、神戸の時のような後ろめたさは無い。
西部地区で揺れがきつかったことは確かだから、詳しく調査してもらいたいものだ。
呉の手前の河原石は悪条件が重なって、大きな被害を受けていた。
それで通行止めの道も多かったけど、ここは以前からゆっくり歩いてみたいと思っていたところ。
というのも昔から絵のテーマとして多くの人に描かれた、独特の瀬戸内風情が残っている町なのだ。
狭くて急な坂道しかないので、歩かない今の人には住みにくいだろうが、実に魅力的なところだ。
しかし、この災害でさらに空家が増えることだろう。
廿日市の旧道沿いも落ち着いて良い町並みだが、便利のいいところなので、古いものは高層のマンションに建て替えられてしまう。
阿品のナタリー跡地は神戸そっくりになっていた。
東へ帰って、瀬野のスカイレールから新しい町を見下ろしながら、この狭い広島の中でも、いろんな暮らしがあることを実感。
勉強になりました。
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心配する、とは心を配ることだから子供のことなどはできるだけ心配したほうがいい。
そのことで守ってやれるかもしれない。そんなことを以前はよく考えた。
地震が起きるかもしれないな、と思ってる時には絶対に起こらない。
何百万人という人の中には、どこかで地震の心配をしてる人がいる。
それで事なきを得ているのだが、瞬間的に誰もそんな心配をしていないときをができて、地震にやられたのではないだろうか?
50年の周期というのは気配りが途切れる確率なのだ。
関東大震災が起きないのは、首都圏の人口がどんどん増えていったので、どこかで誰かが地震の心配をしていて、確率が低下しているからである。
心配性の人は徒に自らのパワーを失っているのではない。非物理的なシールドとなって、様々な場面で大切なものを守っているのだ。
さあ、みんなで心配しましょう。いつでも、どこでも誰にでも。
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広島にはたいした地震の被害が無かったかのような雰囲気が、俺の周りで感じられるので
ひとつ我が家の惨状を披露しよう。
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ここらで花見なら錦帯橋で決まりだ。
陽気に誘われて行ってきました。ウィークデイで混雑はなく快適。
公園では女子中学生が花見を。少し昔の日本みたい。
おれはどちらかというと桜よりも菜の花に惹かれる。
旧市街を散策してもよいし、錦帯橋付近はよいところだが最高のスポットは、3Kmほど下流にある楠の群生だろう。
300年の大木が並び、この堤防沿いも桜が見事。
そしてなによりも水がいい。日が沈むまでしみじみと春を味わい尽くせる。
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ありゃ、もう4月1日だ。
予定ではホームページの画面が軽快に動くデザインに変更されるはずだったのだが。
1日は映画の日だ。今日は「グリーンデスティニー」を見に行った。
臥虎蔵龍だったかな?そんな漢字タイトルで英語はCrouching
Tiger,Hidden Dragon
全編中国語で一切Green Destinyという言葉は出てこない。主演がチョウ・ユンファとカタカナ表記。
これからの日本語は何でもありのデパートの食堂みたいになるかも。(今もデパートに食堂はあるのかな?)
正午の上映を前にして観客が食べているランチの袋は、近所の「ブラジル」のものが多い。
この映画館(サロンシネマ)の定石らしい。もちろん我々も、そこのパンをかじる。
映画は清朝北京の住居、室内、服装が楽しく、家族で楽しめる。
夕方、荒谷山に登る。昨日まで頂上は淡雪に包まれることもあったのに、馬酔木、知らない木、山椿などが春を充満させていた。
松枯れで荒れ果てた林の中でも、芽吹こうとする木々の息吹が(鼻炎にも関わらず)感じ取れる。
この懐かしさは何だろう?
記憶を辿ろうとするが険しい登坂では思考が止まる。
もっとも、穏やかな散歩でも、ものを考えることは少ない。
こうして文章にするときに、ようやく考え始める。そして始めたところで終わってしまう。
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7日間が過ぎて、いろんな話を聞いてみると今回の揺れには地域で大きな違いがあったようだ。
女房も笑われたと言ってたから、俺の顔がおかしかったのではなさそうだ。
被災した人が笑うのはよくあることだが・・・・どうなってるのかな?
笑われたこととは別の問題だけど、自分の中で被災の事実が劣等感を作り出していく様を興味深く見ている。
学校のイジメがよく理解できなかったが少し想像できるようになった。
みんながあまりにも同質なので、取るに足らない些細なことで周囲から差別化され、また自分が特別であることがプレッシャーになる。
すごい喜びとか深刻な不幸とか救いようのない悲しみなどには無縁な、というか覆い隠して見えなくしている毎日。
光と影のない人生か。
それで映画「ハンニバル」なんかに人気がたかまる。
今度の監督のリドリースコットは多分バロック絵画のような演出をするのではないか。
かれはいつも絵画を意識しているから。
久々に自宅でのんびりできたので鉛筆画を描いた。
着色をパソコンでやると修正が簡単で絵の具を洗わなくてもいい。
早くて便利だけど、油絵の具が使いたくなってくる。
想像画は俺の基本だ。
子供の夢想のつもりで描いていると、しばしば「怖い」と言われる。
これまで気にかけなかったけど、意識してみると、確かに自作は暗くて不安の気配が充満している。
夢はホントに怖いことが多い。そういうタイプなんだ。
こう定義すると寂しいけど、もっと積極的に内面の不安を意識しなければ、とも思えてくる。
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この数日、地震のことばかり話していて少し食傷気味だが、やっぱりこれか。一生に一度かもしれないし。
我が家は屋根瓦に相当な被害をこうむったのだが、その状況を話すと笑われる。とくに女の子は腹を抱えて笑い転げる。
これには驚いている。何がおかしいのだろうか?
別に気分を害するのでもなく、むしろ笑ってもらって軽くなれて結構なことなんだけど。
話し方がおかしいのかなあ。
多分、彼女らはとても正直なのだろう。
大騒ぎしながら人が慌てふためいている姿は滑稽なものだ。
我々だって内心ではわくわくしたり、被害を較べ合って優越感を味わったりしているのである。
工事の見積書さえ見ずに済むなら、災害は楽しい。
来るはずの列車は来ないし、道路はふさがって動かない。日常性からの解放だ。
不意打ちだった。揺れてるあいだ、なーんにも出来なかった。
新聞は「活かされなかった教訓」と題して説教を垂れていた。いやーですな。
あんなことは言わないようにしようぜ。
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著作権法に触れずにシモーネ・マルティーニの「グイド・リッチョ・ダ・フォリアーノ像とモンテマッシの城塞」を紹介する試み。
これなら許されるはず。写してみると気づくことがいっぱいあった。
花粉症対策--西部劇でよく見かけたバンダナの正しい使い方。カーブミラーで身なりを整えましょう。
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花粉症が蔓延している。30%近い人がやられていると思う。
この時期に難を避けて海外に行く人がいると聞いた。
日本だけなのか?
植物の逆襲だな。いまはスギ花粉だけだが新種が出てくるかもしれんぞ。
公害だ。車に乗っていてはいかん。
今日、自転車でテニスに行ったら調子よかった。
でも帰りは友人の車に積んで帰った。易きに流れてしまう。
不景気だから散歩でもして過ごそうとしても、風景が壊れてしまっていて、そして花粉症だ。
水の中には花粉は飛んでこないので、プールに行った。
何年ぶりか?鏡に映った我が姿に唖然。
腰の周りがブヨブヨ。胸の筋肉がへこんでる。
毎週、自転車で60Kmは走り、テニスも続けている。でもこれは、そんなことでは駄目。
はっきり言って、「加齢による障害」だ。
「華麗なる生涯」ではない。
腹について考えてみる。
昔は「腹が座っている」とか「肝が太い」とか、肯定的に語っていた。
「若いこと」が持ち上げられるのはアメリカナイズ以降のことだろう。
禅画のキャラクターもたっぷりしている。
そうだ、これでいい。おれもようやく一人前だ。
とは言えないのですね、やっぱり。
第一にズボンがはけなくなる。大損害だ。走りこむしかないか。
それにしてもローリングストーンズは何故腹が出ていないのか?
そんなに禁欲的な連中ではなさそうだが。
もう少し若いエアロスミスのS.タイラーはおれみたいになっている。
やっぱりかっこ悪い。自転車だ、水泳だ、ランニングだ!
もしかしたら食べ過ぎかも・・
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女子高生は相変わらずルーズソックスだ。
すこし髪型の流行が変わったようだが、やはり皆が同じ髪形になっている。
他の都市に較べて、広島は画一的すぎないか?
福岡、大阪、京都、名古屋、東京では意識的に観察したが、このような集団を目にすることはなかった。
百万都市にしては多様性が乏しい。
若者の県外流出率の高さも関係しているのかな。
そう、この県外という言葉。以前はすごく奇妙に感じた。
京都は府だったけど、府外という言葉は聞いたことがない。関西では県でなく圏だった。
話はそれたけど、情報ウィルスへの免疫力が低いことは確かだ。
発信と受信のバランスが狂うと、一方的にコントロールされてしまったり、思い込みで暴走したりする。
おれはこの3ヶ月、ほとんどテレビニュースを見なかった。
均衡が崩れかかっているかも。
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14世紀初頭、イタリアはシエナにシモーネ・マルティーニという画家がいた。
シエナの市庁舎に彼の代表作「グイド・リッチョ・ダ・フォリアーノ像とモンテマッシの城塞」がある。
ピアノの楽譜立てに複製を置いている。
「おれのやりたかったことは、これだな。」と感じさせる絵のひとつだ。
この頃、こういう世界から遠ざかっている。
ちょっと考え込んでしまう。