バーゲンも終わりだ。無印が引っ越すのか、破格の安売りをしていて、ベージュのワラビー型の靴¥7900を¥980で買った。ほんとにいい事をした気分だ。
街中で育ったのでデパートにはよく行った。買って帰ってから心変わりして交換に行ったり、つまらないことで成長期を送ったものだが、悲しいかな、これがおれの原点だ。
旅行に行っても、街歩きばかりしている。
去年ロンドンでワラビーのバーゲンがあちこちでやっていて、街を離れる前に買おうとしたが日曜日でどこも閉まっていた。BargainやHalf
Priceの張り紙ばかりが目立つ街中で、どこも店が開いていない。日本との違いを実感したことを思い出す。
若い人だらけの無印の店内にも時々年配の男女を見かける。
場違いなオヤジだなと思って見ると、同じ視線がこちらに返されている。
ハンズや無印は20年以上前からあった。当時の青年はオヤジになっているのだ。
彼らは転勤族かな?福屋に行くよりも落ち着くのだろう。
映画も見たいな。「ギタリストの恋」を。
*****************************************
「何もせずに過ごすという試み」のために購入した物品はこれ。
高さ80cmほどの円柱型に畳める。山野水辺に携帯して心頭滅却し沈思黙想、とはいかないが、せめて行雲流水ダラーッとするにはこの足置きが必需品。
話し変わって夏祭りと言えば(俺にとっては)祇園祭だ。
それがなんと広島でも祇園祭があった。
安佐南区祇園の安神社では「お祇園さん」とよばれるにぎやかな夏祭りが開かれる。
旧街道に沿って民家が密集し、昔の風情が偲ばれるこの一帯は特に好きな地域だ。
人々は、浴衣姿でぶらぶらと歩きながら集まってくる。
その光景が子供の頃の事を思い出させてくれる。
コンコンチキチンの祇園祭を見て、四条から七条まで家族で歩いて帰った。
蒸し暑い京都の夜、人々は涼を求めて道に出る。だるーい記憶。
日本には5ヵ所ほど祇園がついた地名がある。
町の名前としては、福岡、広島、京都の3ヶ所だけ。あまりない。
だから大学下の巨大な橋が祇園新橋と名づけられたときには、驚いた。
******************************
真夏の授業が行われる背景にはエアコンの普及がある。
それ以前にはとても勉強できる状態ではなかったから,休んだ。
車に乗ってる人間として偉そうな事は言えないが、正しい選択だった。
だらーっとして何もしないという生き方を肯定しないと。
温暖化、人口爆発、エコロジー。
そんな事を考えると路上で座り込んでいる、だらしない若者が実は正しく未来に対応しているのかもしれないと、思えない事も無い。
何もせずに過ごすという試みを時々やっているのだが、さすがにこの天気では難しい。
外気が体温よりも高いのだから、ちょっと手を動かしても熱い。
蚊や虻も飛んでくる。水の中に浸かってるしかない。
高山寺の明恵上人は松林の山中で黙想していたが、暑さ寒さへの対応はどうしていたのだろうか?
フランス人のバカンスは2週間ほど田舎でボケーッと居眠りして過ごすものだと聞いた。
スゴイね、俗人に真似できることではない。
こういうことを酷暑のいま、学び実践するべきなのに。
冗談でなく人口が半減するまでは国民の半分ずつが無為を実践して労働を分け合うべきなのだ。
*********************************
まだ授業が続いている。
海外との連携のために10月から後期が始まる事になって数年。
しかし、何十年と(40年ぐらい?)続いてきたサイクル、梅雨が明けたら夏休みという固定観念は容易に変えられない。
毎朝、なぜ仕事に行くのか了解できず、職場についても「もう終わってる」ような気分だ。
ということは
もっと他の分野でも、昔ながらの条件反射を繰り返しているに違いない。
**********************************
夏の夜、艶かしいものである。
けだるさの中にも体の深奥で疼くものがあり、おぼろげな頭の中が掻き回される。
ビートルズのMr.ムーンライト、冒頭でのJ.レノンの独唱。
おれの思春期が、あのワンフレーズに凝縮している。
それがこんな暑い夏の夜に蘇ってくるのだ。
夏の夜はいろんな事件が起こる。御しがたいエネルギーが乱気流を引き起こす。
*****************************************
自転車に乗った。風が快い。
しかし停まると汗が吹き出る。信号で止まらないようにスピードを調整しながら--たいていは加速しながら進むので、とても考えたり見渡したりする余裕はない。
これはとても気持ち良い事である。
あれこれ考えながら走るのは健康的ではない。
でも哲学者よりもスポーツマンの方が早く死ぬ。
健康だから早く死ぬのかもしれない。
スポーツが健康に悪いのかもしれないし・・・
まあ、いいや。
画像がないのも寂しいからまた猫だ。
少しチャーミングになってきたでしょう。
レオンに出たナタリー・ポートマンみたいになりそうだ。
***************************************
暑かったり,雨だったりで全然自転車に乗っていない。
すると、ここに書くことがない。
ものを考えないし、写真も撮れない。
女房が里帰りをしていた数日間、久々に料理をした。
韓国風がブームになっているそうで、なるほどスーパーにはその手のものが並んでいる。
ビビンバとか鶏肉野菜炒めなどを作ってみた。
夏向きで手間がかからない。
インド゙料理やメキシコ料理は片づけまでいれると三,四時間かかってしまう。
チャパティやトルティーヤを作るからだ。
中華のように油っぽくもないので親しみやすい。
夕食のメニューを考えるのは大変だ。これが毎日だったら辛い。
早々にヨメはんが帰宅。有り難い。今夜は何か?そんな事を近頃考えたことがなかった。
平凡な話題だった。これからはこんな風にいくか。
**************************************
この前に触れたレコードのジャケットを見ながら
「素人目には、すごくへたくそだけど実は超一流という作品を、どのように解説するか?」について思いつづけている。
インターネットのなかにもモンクやルソーを特集したページがある。
とくに音楽と比較すると、美術と技巧について考えやすいかもしれない。
形態を忠実に再現できる能力というのは、早い速度で流麗に楽器を弾けることと同じ程度の、一定の訓練を積めば「誰にでも出来る」ことだ。
ビートルズは楽譜が読めないらしいとか、プレスリーはギターコードを三つしか知らないといって馬鹿にすることが、昔あった。
貧しかったんだな。
今ごろは音楽が好きな者なら男の子でも気軽にピアノを弾いている。
それが特別な技能ではないという認識が広がってくると、ロックの基盤にクラシックを持ってくるような暴論を吐く人はいなくなる。
美術における石膏デッサンがこれほど重視されている国は、欧米には無いだろう。
点数化しやすいということだけで歪められている。英語と同じことが何十年と続けられている。
理屈が多くなったが、モンクのピアノ、下手だと思う。
それが一杯飲むと、とても良く聞こえてくる。
そして何度聴いても飽きない。
この「良さ」を説明するには本質について様々な例を参照しjなければならない。つまり、広い教養が要求される。
ルソーの絵も下手だ。
ここまでへたくそで、どうしてこんな構成力があるのか。
色彩の配置、そして完璧な絵肌。これは音で言うと音色になるか。これについて語ろうとすると、たいへんな作業になる。
実物に触れながら話せたらいいのだが。
彼の代表作はパリとニューヨークにあって、まず日本に来る事は無い。すごく大切にされている。
ニューヨークに行きたい。ルソーを見るために。
****************************
とても暑い毎日、こんなときにすごく涼しい音楽に出会った。
ナラ・レオン「ボサノバのミューズ」
原題はdez anos depoisポルトガル語で意味はわからない。\1750と安い。
原版完全復刻と謳っているだけに、ジャケットもLPの見開き風に工夫してあり、CD盤面も33回転のなつかしいロゴ入り、黒いLPのレコードの真中に貼ってあったデザインを使っている。
ギターを中心に、シンプルな伴奏で淡々と歌う。
これを聴くとアストラット・ジルベルトなどが軽薄に感じられてくる。
フランスに亡命していたとか。
パリのインテリ連中には大受けしたことだろう。
これはマリアンヌ・フェイスフル以来の「当たり」だ。
***************************
過ごしにくい天気が続いている。
こんなときも快楽主義者の子猫ノエルは、家の中で快適スポットを探し出してゴロゴロ。
蒸し暑い最近はピアノの上で体を冷やしている。
居眠りしていてツルリと落ちたりするのがご愛嬌だ。
ノエルの下に写っているのはLPレコードのジャケット。
右のはセロニアス・モンクの顔で、以前から気に入ってるもの。
あらためて見たら、なんとユージン・スミスによる撮影だった。
日本では水俣の水銀汚染取材で有名だが、暗室に入ったら1週間出てこないという伝説のプリント名人だ。
このサウンドもいい。ぐでんぐでんに酔っ払って弾いてるのじゃないかと思えるようなテンポが快い。
実際にピアノは叩くだけで鳴るから一番簡単な楽器でもある。
それが高級・上品・レッスン・お嬢さま・天才とかいうイメージを(昔は)持っていた。
たいてい鍵盤には鍵がかけられていた。(それで鍵盤といったのか!いま気づいた。)
これには腹が立ったものだ。お前には触らせないぞと。
蓋を開くとフェルト地のカバーがある。これだけで楽器として使われていない、家具なんだということがわかる。
ともかく嫌味な楽器だが、内心あこがれも強かった。
ギターなど下卑たものとは格が違うと・・・
こういう屈折した思いを一掃してくれたのがこのモンクのピアノだ。
この気分で時々弾いている。
左のジャケットはご存知アンリ・ルッソー。20世紀最大の画家と確信してます。
いいね、やっぱり。
30cm平方のギャラリー。これを見ながら音楽を聴く。すばらしい。
************************************
これまで美術書を見ても、めったに解説を読まなかった。
直接に作品から感じる事柄よりも、周辺の事情ばかり書いてあって、そんなことで絵がわかったと思いたくなかったからだ。
学生のころ(なんと30年も前!)外国語を理解できる人や海外に出かけられる人は少なかったので、美術情報は閉鎖的で特権的な少数からのみ供給されていた。
これがピントの狂った解説を蔓延させていた大きな原因だと、最近になって確信している。
ここで「ピント」という言葉を使った。
焦点のことだが、英語ではFOCUS。(同名の雑誌が廃刊になる。三尾公三さんのエアブラシ画・・・)
そこで、ピントとはなにかと座右の辞書を開く。大辞泉。
ほんとに机の右側の本棚に置いてあって、とても重い。知力よりも筋力の鍛錬を目的にしているのかもしれない。
結論。オランダ語でした。
阿蘭陀と書くと、南蛮渡来の妖術がかったものというニュアンスが漂ってきて、天草四郎などロン毛の美青年がイメージされる。いいですなあ、阿蘭陀流。
さて、美術解説に戻ろう。
近頃は少し読むようになった。面白いものが増えてきている。
そこらへんのオバチャンの中でも、昔の美術史家に匹敵する知識と見聞を持つ人がいるから、業界の末端で食わせてもらっている私めも、少しは学習せねばならなくなってます。
でも根底に不信感があるから、いつも「ほんまかいな?」という疑惑のまなざしで読んでいる。
例えば、「明らかに後世の加筆と考えられる。」と書かれていても、納得できるようにその理由が説明されていることはない。
紙面の都合でもあるが、その道の権威が判断したことを盲目的に信じ込んでいることが多い。
「明らかに」とか「言うまでもなく」ときたら疑い始めるべきだろう。「考えるのを止めました」ということなのだから。
ともかく、美術品は自分の眼で判断したい。
これにも問題があるのだけど、それは次回に。
************************************
大学の図書館で「額縁の歴史」をぱらぱらと見た。
絵画はいろんなところに置かれるけど、その建築をミニチュアにした様式で額縁が作られていたことがわかった。
ヴェルサイユ宮殿なら、それにふさわしい額縁で決める。
ゴシックの聖堂にロココの額ではいけないのだ。
豪華金縁の額は、それと同じぐらい金ぴかゴテゴテ宮殿の室内では自然なものだけど、
普通の日本家庭で似合う所はない。
西欧にも地味な樫材で作った額縁があるが、それらは「世俗的な」額縁と呼ばれている。
これはひとつほしくなるもの。
要するに額縁は窓のようなものだから、
単純に言うと、その家の内装材で額縁を作ればいいのです。
フィレンツェの街中には額縁の店、小さな作業所がいくつもあった。
それが京都の表具屋のようにさりげなくやっていて羨ましく感じた。
職人が安定した生活を送れる。文化にとってはすごく大事なことだが
日本では絶望的な状況になりつつある。
僕の親父もその変化の中で苦労したから、「職人にだけはなるな」と母親は繰り返していた。
でも古い街で職人として生きるのは、すごくカッコイイことだ。
いまでも憧れている。
******************************
カルチャーセンターで教えている。その絵画教室の作品展が始まった。
(厳密に言うとこのHPでの告知は問題があるけど)
平均年齢は五十代後半だろうか。実に多様な作品がそろった。
僕は絵の描き方を教えたりしない。
毎回のモチーフやモデルを調達して、その人らしさが明らかになるようにと、アドバイスを少しする程度。
それでしっかりした作品が描けている。つまり、みんな才能が豊かということだ。
チャンスがあれば美術学校に行ってただろうという人が半分ぐらいいる。
僕なんか近くに芸大があったので今の仕事に就いていられる。
京都という街から教えられた事はいっぱいある。それも幸運だったな。
広島では三十年前まで美術学校は無かった。
この比治山が最初だったのだ。
その頃、美術をやるなんて大金を使ってルンペンになりにいくに等しい暴挙だっただろう。
(ルンペンって知ってる?浮浪者の事。プロレタリアみたいにフランス語かと思っていたがドイツ語なのね。いずれもコミュニズムと同じくらい苔むした言葉になってしまった。))
ただ皆さんの額縁の選び方はいまひとつだなあ。
流通している品物もひどくて、質実剛健とかハイセンスというものがないので仕方ないが。
版画のように単純な額が油絵でもほしい。
この作品展は学生に見てほしいね。
いま美術科でも洋画には、五十代の女性が二人在籍して毎日描いておられるが
ホントに熱心だ。本気とか集中とか、これは古い言葉になってほしくない。
美術の核だから。
*********************************
子猫ノエルはどんどん成長し、2ヵ月半にして1Kgを突破。
ともかくよく遊ぶ。
紐、ボール、キャップ、輪ゴム、靴下、本の栞、ナイロン袋、
いずれも仮想敵に見立てての一人芝居、本気でやっている。
遊ぶというのは、こういうことなんだなと感心。
近頃、身の回りでこれほど楽しそうに遊んでる人間を見ていない。
これもまあ、老けたって事だろう。
子猫の遊びは狩猟の予行演習でもある。
すでにこんな威嚇のポーズも始めた。
世界中の猫が、同じような動作をする。
本能より学習で行動する人間ではこんな共通性は無い。
それは人類にとって不幸なことだったともいえる。
いいことだけ学習してくれたら良いけど
むしろその逆なんだよね。
やれやれこんなところでも、教育者的な説教調が出てくる。
そんなことより、おれはどこまで本気で遊べるのか?
***********************************
小さな電気スタンドを点けて、本を一冊枕の横に置き、布団に入る。
毎晩、何千回と繰り返す動作。
いつまで続けるのだろう、続けられるのだろう?
そんなことを感じるようになった。
本を開けると
「歳を重ねるほどに時間が貴重になってくる。」という文章が。
ミラン・クンデラ
いつも5ページ以内で眠る。まだまだ・・・。
*************************************
絵を描くたびに、描くことの意味を考えてしまう。
描いている人を見ても、その人が何を考えているのか?と思ってしまう。
考える。ほとんど言葉ではないけど。
ところでスケッチとは何か?描きながら考えた。
素人は葉っぱの一枚一枚を追いかけて大きなものを見逃す。
玄人は既成の作品を眼前の光景にあてはめ、味で決めようとして何も見なくなる。
スケッチは習うものではない。20分から30分、世界を見つめたことで満足するべきだろう。
その中で興味をひかれたものが明確に記録されればいい。
つまり視覚情報の圧縮と変形。
けれど、あれもこれも見たいという俺には難しい。
そこでこのスケッチは眼鏡をはずしたら、楽に描けた。
50年ぐらい前のスタイルだけどね。
もっともっと単純な線だけにしたら今風になれる。
ひたすら情報を減らしていく。
これが現代絵画の作法だ。
でも、それだけではあまりおもしろくないぞ、というのが「これから」じゃないかな。
世界はそんなに単純じゃない。
深さが在るはずだ。おれはそれが欲しい。
*********************************
先日ここで紹介した大学向かいの太田川で、帰宅途中にスケッチしたりして座り込んでいたら、
日没前の陽光が雲の切れ間から真横に差し込んで、ドラマチックな光景が展開した。
一瞬の感激を捉える喜び。カメラは手放せない。
**********************************
春に撮った風景のプリントを持って太田川に行った。
風景画を描いている。小学校以来のことだなあ。
河岸の木々が、ぼさぼさに伸びた頭髪のように変化していた。
葉の色は暗い灰色を混ぜたようになって、春の軽やかさは既に無い。
枝が見えなくなり茂みの重さでたわんでいる。
中州に行くと小鳥たちで騒がしいほど。
南風が快く、腰掛けてじっと風景を眺めた。
10分か15分、ぼんやりと眺め続けて
ふと手にしていたプリントを見ると
平板で全く密度のないものに感じられて、驚く。
先程までは春の印象が鮮明に記録されていると感じられたのに。
あらためて風景を見る。
いま見ているものは何なのだろう?
手にした写真に写っているものは。そして
おれは何を描こうとしているのだろう?
午前中に見た展覧会は「写真と絵画」をテーマにしているドイツの作家のものだった。
かなり自分と似たことをしているので、近親憎悪的な不快感を抱いたが
俺もまた、この問題にこだわっていることが確認できた。
どのように考えればいいのかもわからないが、ともかくじっと座って眺め続けた。
今日の夕方はいい時間が過ごせた。
************************************
大学の授業では、油彩実技のほかにCG演習を担当している。
こちらの時間数が増えてくるのは、時代の要請で仕方ないし、
僕もコンピュータは嫌いな方じゃないけど
つまらないトラブルの対処に追われるので、あまりおもしろくない。
その授業での教材から、ひとつ。
県立美術館を使った、展示のシミュレーションだ。
下の写真に、いろんな画像を加え、変形し明暗をつけている。
卒業制作を構想するのに役立ちそうだ。
このHPを見てくれる人には、この展示室を使う機会がありそうなので
もし、希望があれば空っぽの部屋の画像ファイルをあげます。
(メール転送で時間はかかるので、覚悟して)
こういう画像では学生たちが驚くほど巧妙なものを作る。
車の助手席に知らない人が座っているとか・・・
写真を信じてはいけませんよ。
****************************************
たちあおい(立葵)を通勤途上で見かけると、夏が来たなと実感させられる。
植物で季節を感じるという体験を子供のときにほとんどしていない。
この10年ぐらいで徐々に変わってきた感覚なので、割と新鮮なのだ。
品のある花だと思う。宇品のあたりで群生していると、あちこちで聞く。
梅雨に入った。
久々に雨だれの音を聞いた。
神社の屋根から白砂利に落ちる水滴、
その音に懐かしく聞き入った。
僕にとって自然は、このような現象から増幅させて想像するものだったのだ。
雨が降ると、あいにくですね、とか、うっとうしいですなと挨拶する。
むかし、同様の事を英国人の友達に言ったら、「どうして?とても素晴らしいじゃないか」と返答されたので、驚いたことがある。
かなり浮世離れした男だったから、タルコフスキーの映画などをイメージしていたのかもしれないが、言われてみれば、なるほどそう悪いものでもない。
とくに山の中などは草の一本一本までが水滴できらめいて美しくなる。
***************************************
イタロ・カルヴィーノというイタリアの作家をご存知だろうか?
詩がつながって行くようなファンタジックな小説を書く。
一つ一つの言葉がきらめいていて、どこから読んでもイメージが広がる。
とくに「見えない都市」と「まっぷたつの子爵」がおすすめ。
あまり良いので原文ならもっと素晴らしいかも・・・と、ローマの書店で買ってみた。
もちろん全然読めない。
それほど惚れこんだというお話。
フェリーニの映画が好きな人なら、気に入るはずだ。
今朝起き掛けに、彼の自伝的な小説を読んでいた。
そこで情熱と義務という言葉が、正反対のものとして使われていた。
情熱は「無駄」のために注がれるという。
芸術の根拠ですな。
一方、情熱を義務に変えて、定型化した毎日を送る人達。
いるよね、たくさん。
我々は、こうしないと生きていけないように世界を作っている。
昔は情熱のために滅んだ人がたくさんいたようだ。
最近、そんな話しを聞く事が無い。
あったとしたら愚行として扱われている。
でも、それはホントにバカな事なのだろうか?
昔々にみたフランス映画で、ふたりの老人が村で起こった悲劇を語り合うシーンがあった。
その会話の最後で、「美しい話だ。」と結んで別れる。
それをみて、すごく驚いた。
日本語で言う「美談」とは大違い。「美しい」という意味のとらえかたに衝撃を受けた。
「情熱」という言葉は死を連想させる。ドラクロワの絵の赤と緑のように。
すごくこの言葉が気になる。
*********************************
6月は、ヤカンから。
ポプラとプラタナスの区別がつかなかった。ボケてる。