デジカメを買い換えることになって、カタログを調べ実物に触り、Webで情報を集め、あれこれと悩んで楽しむ。
どのメーカーもよく考えているので、「飛びぬけてコストパフォーマンスが良いという製品は無い」ということがわかった。
カタログスペックだけ見るとダントツに思えた製品が、手にとるとすごくチープな感触で、詳細に調べるとあちこちで妥協していて、それで低価格にしていた。
この手触りという判断はかなり信頼できるものだ。けれども身の回りから確かな感触が失われていく。価格競争は弊害も多い。
性能は価格相応ということになると、結局決め手はブランドとデザインになる。
昔、家電ではナショナルが他を圧倒していた。でも今はシャープのデザインがいいと思う。
カメラではフジなんか恥ずかしかった。でも今回はデザインでフジを選んだ。実際にデジカメの売上げではトップに立っている。
世間の評価も変わるものだ。デザインがそれを変える。
日本、韓国、台湾・・・国の評価は?
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テニスの後、家の向かいにそびえる火山(ヒヤマ)にも登った。
頂上近くの岩場で昼寝している間、女房は山帰来を収集していた。
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連休をしっかり遊んだ。その分、いっぱいの仕事が待っていてHPを更新する余裕も無い。
手帳を無くした今、これが日常の記録となっているので遅ればせながら書き留めておこう。

3日間、午前中はテニスばかりしていた。全く上達が見られないのは空しい気がすることもあるが、近頃では下手になっていない、相変わらず体が動くということに意義を感じている。
しかし、こればかりでは寂しくなるほどの陽気が続いていた。人並みに行楽だとばかり宮島へ紅葉を求めて出かける。夕暮れも近くなれば人出も少なくなっているだろうとの読みだ。
甘かった。廿日市を過ぎたところから道路が込んでいて、駐車することもできない。昨年も京都でこんな読み違いをしている。
山奥に住み、世間離れした職場に勤めて相当ズレが生じているのだろう。
日本の人口密度はとても高く、大概の人は車を持っていて、宮島は観光地で紅葉の名所であり、晴れて暖かな3連休の中日である。これらの条件が考慮できない。馬鹿だ。

引き返すのも寂しいので山へ入って走っていたら湯来に出た。その近くの「湯ノ山温泉」に寄る。
ちょうどテニスの汗も流さずに出てきたのと、300円という入湯料につられて入る。
我々夫婦が温泉に入るというのは滅多に無いことだ。20年ぶりかもしれない。だがこれが正解だった。
熱めの湯加減や屋外の「打たせの湯」(20数度の水だけど)、そして客は6,7人と空いている。
大いに満足して外へ出たら、「さすがに連休だから人が多いなあ」とオヤジが話していた。
こうでなくっちゃいけませんね。

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牛頭山に登った。
険しい山の頂上までヒノキの植林が行われていた。
こんな話を聞いたことがある。
植林の結果、ヒノキが密生して日照が地面に届かず、下草が生えなくなって土壌が痩せ、表土が流れ去って山が荒れる。そのヒノキも安価な輸入材に押されて商品価値を失い、枝払いなどの手入れが行われなくなって、さらに山の荒廃が進む。そして大流行の花粉症の原因になっている。

この事業を始めた人たちは子孫の繁栄を願い、努力を重ねたのだろうに、4,50年後にこんな状況になるとは想像も出来なかっただろう。
いまリストラに苦しめられている50代のおっさん達。このヒノキと同じじゃないか。
教育界でも同じようなことが起こっているのだろう。
真面目で熱心な教員達が、良かれと信じて頑張った結果が不本意な問題を続出させている・・・・

真面目・・・・これが過ぎると視野が狭くなるということか。
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あれから流星についての記事を調べる。
数ミリ程度の砂粒が空気に触れて燃えていたのだ。それがあんなに光り輝く。
拳骨ほどもあったら大変なことになる。象ぐらいもあったら大被害だ。
「地球に当たったら、なにもかも消えるね」とか昨夜も息子に話していた。
そんなことを考えて驚くと共に、少し悲しくなる。一瞬の炎だった。流星は消えて無くなったのかと。
シャボン玉みたい。
あの歌は誰でも知っている。あの2番だったかな。
「シャボン玉消えた。飛ばずに消えた。生まれてすぐにこわれて消えた。風かぜ吹くな。シャボン玉飛ばそう。」
むかし東北地方で飢饉があって生まれたばかりの子供が間引かれたことがあったらしい。
なんと、その悲劇が、さりげなく歌われているのだと、誰だったかフォーク歌手が話していた。
それが童謡になって子供たちに歌い継がれている。これこそレクイエム、鎮魂歌だ。

これを書いたあと、ネットで調べたら「童謡 シャボン玉」で760件がヒット。
いっぱい逸話が載っていて、戦争や結核やら・・どうも作詞者の野口雨情が自分の幼児を亡くして落ち込んだときの歌というのが真相らしい。


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しし座流星群。いっぱい見られた。
2:00から3:30まで出窓を枕に布団をかぶり、女房と並んで見る。
光跡は思ったよりも短い。たまには電気のショートみたいに派手なものも飛ぶ。そんな時はブッという音がしたような気がした。

さすがに今朝は眠い。
あれほどの流星なら、この晴天でも見えるかもしれない。
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学内も紅葉が美しい。
坂道中ほどに橡の木がある。
三段峡などでよく見かけるし、山奥の木というイメージが強かったが、パリの並木で有名なマロニエはこれと同じだったのには驚いた。大きな葉っぱだから枯葉といってもバサバサ落ちてくるので、あのシャンソンのイメージからは程遠い。
この「マロニエ」という名前には特別の思い入れがある。
小学校のとき4年間にわたって担任だった先生は、週末に無料で美術教室を開いてくれた。
その作品展を毎年繁華街にある画廊で開いていたのだが、その画廊の名前が「マロニエ」だった。
いまも健在で(画廊というのはケーキ屋さん、花屋さん、ブティックなど女の子の好むお店のひとつだから持続するものは少ない。)中堅作家の発表の場になっている。

これがマロニエか、と想うと橡の木が違う風に見えてくる。
なんだかんだで勝手に想像が膨らんでいるものがあるものだ。これを幻想と呼ぶ。
恋愛を例えにすると理解しやすいだろう。
山奥の田舎娘がパリジェンヌに重なる。そういう不思議さを感じる。
橡の実はマロングラッセに使われたこともあるという。
垢抜けたパリの趣味が案外、素朴なものでもあると感じられてホッとする。そして気取った作り物でなく、日常的なものであることに納得する。
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テニスから帰ったら猫がいない。
よく押入れなどに隠れるので家捜しするが見つからない。2階の部屋の網戸が開いている。植木を伝って降りたらしい。
近所を見回る。さらに半径を拡げて歩き回る。
どこか遠くに行ってしまったのではないか。女房はオタオタして泣き顔だ。
夕方には帰ってくるだろうと俺は楽観していたが、一応インターネットで「猫 行方不明」で検索してみる。フランス映画の題名だったから、そんなことぐらいしかないだろうと予想したが、なんとありました。詳細な対策やデータがまとめられている。10日たっても帰らなかったらチラシを作って配るというから、長丁場になるのだ。そんなことがわかるだけでも落ち着いて対処できる。しかし、猫探偵という職業があるなんて知らなかった。
夜、再び捜索へ。驚くほど鮮明な星空。息を呑む。
猫は近々避妊手術を予定していた。それを察して出て行ったのかな?どこかでいっぱい子供を産むつもりなのだろうか。室内でゴロゴロ、コタツでぬくぬくして猫は幸せなどと人間が勝手に考えているだけ。星空の下では思考が大局的になってくる。
しかし、家庭は沈鬱だ。これが続いたらたまらん。
浅い眠りから目覚めると、夜明け前なのに猫を呼ぶ女房の声が聞える。やれやれ、重症だな。メンタルケアを考えなくては・・・・・と、そこに猫を抱いた女房が。
やっと、ご帰還である。なるほど夜型の猫は朝になったから帰ってくる。日が暮れたら帰ってくるだろうと人間感覚で考えていた。
テレビで報道されることに比べ、なんとも能天気な事件だったが、久々にリアルな緊張感を味わった。そして美しい星空も。
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風が冷たくなったが、自転車には快い季節だ。
充電池を買い換えてランプも明るくなった。腹の周りがたるんできているので、できるだけ自転車に乗ろう。
このごろは顔に続いて体まで自分のものとは思えなくなってきている。次に来るのは頭の中だ。
いや、既に変わりつつあるのだろう。
太田川を渡る橋の上から鴨の親子連れを見かけた。一列縦隊になったり蛇行したり、のんびりと川を遡行していく。
その光景に、自分の家族の「在りし日の光景」をダブらせて感慨ひとしお。
「あんな幸せなときがあったのだから、俺の人生も無駄ではなかった」と、すべて終わったかのように感じている自分に驚く。
それは仕方ないとしても世界が終わったということにならないためにも、自転車を漕ごう。
かなりこれで正気が保てる。
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100円ショップの製品を組み合わせて制作しているアーチストをTVで見て、ちょっと気になったので店を覗いてみた。
客の入りがいい。それもブラブラ物色しながら、これも買っとくか、あれも・・と籠に入れている。
A4透明ファイル20枚が100円、これは安い。しかし、CDR、これなら50円で買える。
店内には変わったものがいろいろと、100円という共通項だけで並べられている。
「携帯電話お断り」のプラスチック看板、これを買って授業中に掛けておくか、と思わず手にとりそうになる。
旅行のガイドブックまであって、それの京都を見るが使い物にならないだろう、店のコマーシャルばかり。
良し悪し50%ずつか。欲しくなる物、持ちたいものは全く無い。
でも売れている。消費の快楽を刷り込まれた民衆の救済装置、一種のパチンコなんだな。
買い物ゲーム、これだけガラクタが溢れているのに買わずにはおれないのか、悲しい。
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お宝
も最後。
ちょっと珍しいぞ、東大寺大仏殿の前に立つ六角灯篭を飾る音声菩薩の複製だ。
教育実習で一緒だった女の子のオヤジが、戦時中に文化財保存のためにシリコン型を取った。それが自宅にあるというので、実習中の美術準備室で樹脂を溶いて流し込み、5体ほど作った。
高校の先生が彫刻をやっていたのでバッチシの出来栄えである。
原型一番取りなので形も鮮明だ。
しかし、これを和室に飾っても、いまひとつ馴染まない。どこかエスニックなのだ。
奈良時代初期のものだけに、室町時代からの「和風」とはずいぶん違う。長らく京都の家にあったが、居場所が無くてこの夏、広島にお招きしたのだ。
確かに場を定めにくい。
インド風、大陸的なものが色濃く残っているので、シタールの傍に置いてあげたほうが幸せそうだ。
我が家には仏壇も神棚もないので、この菩薩さんに落ち着いてもらいたいのだが。

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最近はここに思い出のようなことばかり書き連ねている。
現実的なことで言うと、いま最も必要な宝ものは手帳だ
先月の盗難でバックアップできなかったものは、これだけ。
あとは金と手間で解決できた。
予定や記録が判別しがたい記号や殴り書きで書き込まれているだけのものだが
喪失感は日々大きなものになってくる。
いつ、何をして誰に会って、何を買って、そんな日常的な記述が意外にも貴重なのだ。
思えばこの規格の手帳を10年間、使い続けている。3年前の今日、何をしていたか、こんなことも思い出せる。
相変わらず同じことをしている、と感じることもあれば、数年間の変化に驚くこともある。

2001年の9ヶ月が空白になった。
それもあの9月11日に、消えた。
「何も残すな、忘れたほうがいい」ということだろうか。
思い当たる節がないでもないが、それだけに大切に思える。
記録されなかったら秘密も無い。手帳は人に見せるものではないが、言葉にすることで、或いは表現することで存在を確かめられる。
自分が消えれば意味を持たなくなることばかりだから、こだわるのもつまらないんだけどね・・・

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これはシタール、ミニサイズだ。はるかな昔、インドで買った。
我々の世代にとって、この楽器は特別な意味を持つ。
ビートルズが使って世間に知られたが、ヒッピーカルチャーを代表するサウンドだった。
長髪、サンダル、インドシャツ、Tシャツ、ベルボトム、ズタ袋。
そんな若者がいっぱいいて、大学紛争やロックフェスティバルなど・・・ほとんどすべてが商業化されている現代に較べて、「創造的で文化的」だったように思える。
もちろん現在の僕が、ダブダブのジャージーで茶髪の若者を嫌うように、そのファッションはヒンシュクものだったのだが。
この世代が後に「モーレツ社員」になり、バブル日本の中心になるとはね。
ヒッピー運動には金儲けよりも自分の時間を優先し、他人と競争せず自然を守り、音楽を愛する。ただのファッションでなく、そんな理想があったはずだった。
アジアやアフリカを多くの若者が旅した。今よりずっと安全に。
民族音楽がレコードが出され、ヨーガ、道教いろんな宗教、「非文明的」な価値観が紹介されていた。
どこへいってしまったんだろう、ゆったりとして多様な物の見方は?

シタールの本物は2倍ぐらいのサイズでチューニングに2時間かかるほどたくさんの共鳴弦がついている。フレットが可動式で幅広い半円状になっているので極端なチョーキングも可能だ。
隣りの太鼓はネパールのもので、シタールの伴奏に使うものではないがコンパクトなので、セットにしてあちこちの結婚式で演奏した。
OooOooOOのリズムで誰かに太鼓を叩いてもらい、Eマイナーの調で適当に弾けばインド風になる。
いくら酔っ払っていても即興なので「間違える」ことがない。フラメンコやブルースも同様だ。
(本当のインド音楽は厳密で複雑なものだが)

こんなことを考えると、宝物のトップはこれかも。
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この水墨画は女房のオヤジが描いたものだ。小さな我が家には似合わぬ大作である。
これを描いたオヤジさんは野人といった風貌の男で(この絵に似てる)すごく書と絵がうまい。最初に会ったときに僕を軽々と持ち上げて計量計に乗せ「ほう、軽いのー」と(実際は東北弁だが、わからないのでここでは広島弁にしておく)驚いていたが、もちろん驚いたのはこちらのほうだった。
彼が暇つぶしに描いていた虎の絵をみて、さらに驚いた。達人といってもいい筆さばき。しかし本人は全く自覚が無い。水墨教室に行ってこの達磨を描いたそうだが、講師は顔色を失ったのではないだろうか。
床の間には朝日があたるので、少し黄ばんでさらに風格が出てきた。子供たちにとっても、おじいさんが描いた水墨画で日本情緒を味わって育ったことは、いい財産になっているはずだ。
後々まで大切にしたい。
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ギターで始めたので、他の楽器たちも紹介しておこう。
これらが第2の宝というのではないけど、いい友だちである。
1番のエレキは比治山に赴任した年に、(24年前!)学生から買った。
ようやく念願のエレキを手にしたのである。何度かバンドの真似事をしたとき以外は轟音を出したことがない。深夜ひとりで練習するためのもの。
2番は「オベーション」というUSAのブランド製品。金を貸したら、これで返済された。
あまりにも透明な音色は僕のタイプではないが、尊敬するジャズギタリストのジョー・パスも、これを使っているので、人に自慢するために置いてあるもの。
3番はソプラノ・リコーダー。
最近に亡くなった元美術科教授、彫刻家の芥川永さんからもらった。クラシック音楽をよくご存知でいろんな話をきいた・・・・・・・


しばし思い出に浸ってしまった。芸術を生きた人だった。
美術科に働きながら、いま芸術を語ることは皆無だ。
笛に触るたびにいろいろと考える。

マンドリンは普通に弾けるがバイオリンはどうしようもない。猫が家出するといけないのでさわれない。その点、ピアノは叩けば鳴る。でもチューニングは自分でできない。かなり狂っている。

しかしまあ、あれやこれやと移り気で集中できない人間であることよ。
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宝物第1号はこれだな。ギター、ナイロン弦のクラシックギター。
僕が高校入学の時に買ってもらった。16歳の時だから34年間の付き合いになる。
京都の十字屋へ母と行った。手工品と銘打っていて、当時で1万数千円したから安物ではないが高級品でもない。しかし、今にして思うとかなりはりこんでくれたのだ。

中学のころはウクレレを弾いていた。
ギターの代用。なにしろビートルズの後にベンチャーズが出てきて、大エレキブームの最中のことだ。少し情けなかったな、ウクレレでは。
バンドや歌に縁が無かったから、このタイプのギターを選んだのだろう。
テレビの通信教育でギター講座が開かれていたから、今よりはずっとクラシックギターがポピュラーだった。
高校ではギタークラブに入ってたから、時には背負って自転車で通った。
ある日、転倒した時すごくビビッた。あのときの不安は今もありありと蘇る。
ギタークラブは発足2年目で先輩達は皆フラメンコを弾いていた。
いま思い返しても奇妙なクラブだ。日本でも唯一だったかもしれない。
独特のつくりのフラメンコギターは高価で入手も難しい。それを何人もが持っていてハイレベルな演奏をしていた。
そこで僕もラスギアードという掻き鳴らし奏法などから教わって、アレグリアスとかセビリャーナスというような曲を、手書きの楽譜で練習した。
フラメンコの教則本は出版されていなかったので、先輩達が習っている人がレコードから採譜したものを流用させてもらっていたのだ。
今でもフラメンコは好きで、歌や踊りもよく見に行く。楽器店ではフラメンコギターがないか探すことが多いが、滅多に見かけない。
やりたかった。でももっと無難な方へ落ち着くのが僕のパターンだ。
先輩達はやがてエレキに流れ、クラブを引き継いだ僕は、マンドリンの好きな先生と「帰れソレントへ」等を二重奏するようになっていった。
だから僕が芸大に行ったと聞いた級友の中には、音楽関係に行ったと思った人もいたらしい。
ギターの腕前は高校のときからほとんど上達していない。
進歩していないのは、これだけではないけど。
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夕暮れが早くなって、寂しい。

さて、私は時どきシャツなどのアイロンがけをする。
こころ落ち着く時間だ。
おそらく、その静けさと淡々とした作業が、ぼんやり考えるのに向いているのだろう。
掃除や洗い物をすることもあるけど、かなりノイジーな作業で、とても音楽なんか聴いていられない。
当然、考えるなんてできるはずはない。
村上春樹の小説にはアイロンがけのシーンが何度も出てくる。林望もエッセーにアイロンがけの工夫について書いている。
世の中の男性がどれぐらいアイロンをかけているのか、わからないけど作家先生たちがそれぞれに自説を主張されているところを見ると、なかなか奥深いものらしい。
「正しいアイロンがけとは?」皆さんはどうやってますか、誰に教わったでしょうか?
以前に「本格的アイロン台」を購入した時の付録に、そのノウハウが説明されていた。
それによると、まず襟から始め、次に袖口から袖へ。ボタンのついている前身頃から背中に回って、前に戻って仕上がり。これが「正統」らしい。
布地の伸縮を理解するためにハンカチから練習せよ、とあった。
英国の執事たちはどのようにしているのだろう。

我が家では三男が、よくアイロンをかけている。夕食後の皿洗いを手伝わされるよりはと、テレビを見たいがためにアイロンをかけているので、我々は「免罪符」と呼んでいる。
彼は彼なりに好きなようにかけているし、まあまあ仕上がっている。そんなものでいいのだろう。
しかし、掃除、洗濯などの日常行為に規範が無いというのは、よろしくないのではないか。
急激な生活スタイルの変化で伝統的な方法が役に立たなくなって、そこで成立していた作法も失われた。日本人の乱れは、ここから生じているのかもしれない。
年寄りじみた発言になってきたが、若くあり続けないと適応できない社会というのが異常なことなのだ。

そんなことを考えながらアイロンをかけた。
目の前には達磨を描いた掛け軸がある。我が家にもいくつか宝物があるのだ。こんどはそいつを見直してみよう。もともと身の回りのささやかなことだけを取り上げるはずだったから。
それでも、やばいことが身の回りでも起こっている。
異常潮位。地球温暖化だろう。ロシアは喜ぶかな。でも沈む国もある。宮島も危ない。
やれやれ、困ったことです。
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シリアスな発言が続いていたが、1ヶ月もたつといつものお気楽ムードが戻ってくる。
これではいかん、さらに危機意識を深めねば・・・と思わないこともないが、
この健忘症、つまらないことに気が紛れてしまうということが無ければ、
ほとんどの人は狂ってしまうだろう。

宗教、哲学、芸術に関わる人は、簡単に気を紛らわしていけないだろう。もとより、紛らわせることができない人が、それらに関わっているはずだから。
修業というのは、バランスを崩さずに思索を深めるノウハウが長い歴史の中で固められてきたものだ。哲学的な思考も単独でやるのは危険だと言われている。
芸術は歴史が浅い。われわれが抱いている芸術観は、おそらくベートーベン以降に形成されたものだろうし、社会的孤立を前提にしているところがある。
「考えを深める」という行為をテクニックとしてクールに見直さねばならないぞ。

よくアメリカ映画で見る、精神分析医のそばでベッドに横たわり述懐するアレ、やってみたくない?
カトリック教会の懺悔のバリエーションなのだろうけど。

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お飾りの画像から。
地球温暖化についてのエッセーを読む。
「自然によるブレーキ」という項目にドキリ。現代文明を何百年か後退させようという運動。原理主義。
この惑星の存続という視点から見れば,これは正義で、欲望の肥大によるバランスの崩壊を修復しようとする「自然の摂理」とも言える。
この動機で、細菌散布によって人類が滅ぼされるという「12モンキーズ」の映画を思い出す。
小説版の内容が良いらしいので本屋で探すが在庫なし。でもトム・クランシーが国際テロの小説を何冊も書いていることを確かめられた。国会中継で大橋巨泉が触れていて、小説にも書かれていることへの対応ができていなかったと、アメリカでCIAの怠慢が指摘されていると話していたのを銀行で見たのだ。
本命の文庫は入手できなかったけど、ちょうどビデオレンタル半額デーだったので映画を再見。
悪夢とデジャビュが主題であったが、人類の存在を悪と考える者による犯行も、大きなテーマだったのではないか。
今回のテロの残虐さは、そこからも来ていると思われる。


ヨーロッパ便の飛行機からの眺めは、北周りも南回りも、延々と荒野が続く。
道路が見え、時には町もあるようだから人が住んでいるのだろう。
地域によっては戦火に怯え飢えに苦しんでいる。その彼らにも銀色に光る機体が見えていることを想像すると、とても後ろめたく感じられたものだ。
機内食を食べながら数時間で国家を横断していく。

我々の目には「荒涼」と映る風景の中に暮らしていても、比較するものが無ければ、これも運命だとあきらめたかもしれない。ごくわずかの食料しかなくても、とくに貧しいと意識することは多くなかったに違いない。
今やテレビの電波と飛行機が飛ばない地域は無い。
毎日、王侯のような暮らしを送る外国人の姿を見せつけられる。そして頭上はるかな高空を飛ぶジェットに乗れば、すぐにその国に行くこともできるのだ。
それなりのプライドを持って暮らしていた人々が、経済的な劣等感から惨めな存在におとしめられる。
そこからの脱出が絶望になったとき、残されるのは価値観の転換だけだ。
そして、現世の否定。
情報化と交通の発達が生む悲劇は、これからますますはっきりと現れてくるだろう。

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ともかく画像。
えらく急いで攻撃を始めた。
早朝、電話で起こされる。先日の友人からだ。
ヨーロッパでは旅客機に乗る人がなくて飛ばないとか、銀行に預金を心配した人がつめかけたとか、新聞に載らない周辺の話に、攻撃に参加した国ならではの緊迫した空気を感じる。
「おまえはどうするつもりか?」と尋ねられて返答に窮した。
欧米に暮らした人はこのように直截な質問をする。
贅沢を謹んで、無駄がないような慎ましい暮らしを続けていくしかない。他人にどうこう言っても仕方ないし・・・・・・これまでは、これで済ませてきた。しかし、今度は違う気がする。
昨夜のテレビで自家用飛行機を操縦してハンバーガーを食べにいく少女が写っていた。
アメリカの話だ。こんな時に・・無神経な番組に腹が立った。
車に乗ってテニスに行く俺に怒る資格は無いのかもしれないけど、これだからアメリカ文明は困る。
成功したら何をやってもいいのかい?
今朝は新聞をしっかりと読む。ビンラディンが広島のことに触れているので驚く。
有数の経済大国になった日本人には見えなくなっている、世界の大多数を占める貧困層。
そのなかには、無数のシンパがいるに違いない。 
「世界中が支持している」とアメリカはムキになって強調しているが、それだけ不安なのだろう。
前回の貿易センタービル破壊の犯人はアメリカ人だった。アメリカ国内の格差は大きい。成功者の何十倍ものLOSERがいる。
日本の中だって不況が進めば、パソコンと英会話でいじめられ疎外されてるオヤジも危険な存在になるかもしれない。
生態破壊よりも先に、これで滅ぶぞ。


こんな憂鬱を慰めてくれる音楽に遭遇。

メアリー・コクランというアイルランドの歌手がビリー・ホリディの曲を歌っている。
これをFMで聴いて驚き、再放送を録音した。
繰り返して聴くほどにひきこまれる。欲しくなって大手の店を探したがない。そこでインターネットショッピングを試みる。
一発、送料なし、即配達。
これはすごい。遅ればせながら感激。
そして、この2枚組みCDがとても素晴らしい。ダブリンの場末でアイリッシュ・ウィスキーに溺れて「俺の人生は失敗だった・・」とか切々たる想いで耳を傾ける。いいなあ。
すごく惨めな思春期を送ってアル中というところはビリー・ホリディと同じ。ただルックスはずいぶん違って、ごっついオバハン。この辺はマリアンヌ・フェイスフルと共通している。
こういう人って日本にいるのかな。淺川マキはどうしてる?
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英国に住む友人と、今回のNY事件について意見を交わした
アメリカに敵対するものの立場を想像しながら、イスラム過激派だけでなく、誰の心の中にも在る、強力すぎる者への反感の危険性を述べた。
世界中がアメリカ化されることへの反発、車社会、ハンバーガー。
I hate America!とまで書いて、ちょっと過激すぎるかなとも思われた。おまけに広島でアメリカがやったことが今、浮き彫りにされたということまで・・
下手な英語なので誤解されるかもしれないねと付け足しておいたが、返事が戻ってきて驚いた。
ネット上での発言に気をつけないと、今はすべて監視されているという。
ぞっとした。ほんとうに。
彼に迷惑がかかるといけないし、僕だってマークされたくないから、言い訳というか真意を補足して伝えた。その文中にも「私は危険なものではない」と加えておいたけど、その筋の人はどう受け取っているか?

この文章を書いているとき、またメールが届いて「なかば冗談だが、有り得ないことではない」と。
なにしろ全土にビデオ監視網をめぐらす国だから、やりかねない。
英語というのはコンピュータで処理しやすいのでフィルターで漉すように言葉をチェックするのは簡単だろう。
ともかく、彼に迷惑がかからなかったので安心。そして俺も。

次に何が起こるかと予想して、今NYでは毒ガスマスクが売れているらしい。
僕も細菌を考えた。映画の「12モンキーズ」を思い出したのだ。
きょうのことだって映画の「未来世紀ブラジル」を想った。テリー・ギリアムはすごい。

作家、脚本家、監督などアーチストを動員して対策を考えるといいだろう。これは想像力の戦いだ。
想像もできないことが起こったのだから。
アメリカは、ここをこらえて力の行使に走るべきではない。世界の世論を味方につけたとマスコミで触れ回っているが、抑圧され、潜在化する負のパワーが恐ろしいのだ。
また激突の映像が人間の暗黒面を目覚めさせるのじゃないかと心配している。
50年前には世界中の人間が、何千万という単位で殺しあった。ほんの少し前のことだ。
戦争には反対だ。どうすればいいのだろうか?