免許の更新へ。
西風新都と名づけられた山の中、広大な造成地に真新しい免許センターが立つ。
空港ビルのような外観。つるりとした触感で清潔、無味無臭の内部。
能率的に淡々と進められる更新作業。
同じ説明と動作が繰り返される。
この空間に恐怖を抱く。
一日働いたら、気が狂うかもしれない。
正直言って、そう感じた。
大量に処理する。
それを目的にすると変なことがいっぱい起こる。
それが現代なのだが。
ところで、この「処理」という言葉、辞書では数行で説明されているが、なんてたくさん使われていることだろう。
「処理する」すごくイヤな言葉だけど。訳のわからないことや、曖昧にしておきたいことなどをこの言葉に押し込めたみたい。
言葉狩りの裏で。
そんなことを考えながら和英辞典を見ると、おもしろい。information
processingを情報処理と訳したのは逃げだな。
処理には常にdisposalという意味合いがつきまとう。処理されたら終わりやないか。
話は変わって、この免許の更新は誕生日の一月前からできる。ということは、ここで並んでいる人達は大体が魚座生まれなのだろう。
魚座は芸術家が多いとか書いてあるけど、そんな雰囲気は感じ取れなかった。
一度さそり座の時期に覗いてみようかな。
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季節はずれの、素晴らしい天気。しかし、つまらない会議が続く。
外は快いだろうなと想像することで、実際に外にいる人よりも外気を感じられることもある。
そう考えて自分を慰める。
こういう発想は和歌の世界にもあったような気がする。
会えなくても、会えればどれほど素敵だろうかと想像する。
なくても、あればどれほどいいだろうかと夢見る。
幼いころ、兄貴と「なんでもごっこ」というものを眠る前の布団の中でやっていた。
なんでも欲しい物が、望むだけで現れる。
本気だった。
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職業柄、あちこちの大学のホームページを見る。
最近の傾向として、極端にシンプルなものが増えているようだ。
ほとんど骸骨みたいな、無愛想というか質実というか。
なんか、わかるような気もする。例えば部屋に何も置きたくないとか、たんすの中の衣服は少しだけでいい、みんな捨てて単純になりたい、とか最近こんな気持ちにさせられることが多い。
でも、それだけではなく、一時の熱狂は冷めたとか、とりたててメッセージはありません、みたいな虚脱感も漂っている。
止めるわけにも行かず義務的に継続していくなら、こんな公式文書みたいになるだろう。
それでも洒落た感じを出せるはずだが。
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無印のバーゲンで9割引という感動的な買い物をした。
コタツに入って、そのスラックスの丈直しをする。子供のころからの習性は偽れない。
本当に嬉しいし、なごんでいる。
同じ日に本屋で「ギター・スタンダード名曲集」を買う。
鉄道員、第3の男、さくらさくら・・・30年以上昔に練習した曲ばかり。アホみたいだけど、いい曲だなあ。
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中国に留学した人が話すには、名前をあちらの発音で読まれるのでわからなくて困った、という。
おれの充がミツルでなくチュウンなどと発音されたりするのだ。
いま韓国人は現地の発音で呼ぶのに、中国人は日本風に読んでいる。
同じ漢字を使う民族とか、肌の色が同じとかいうことに、「同じ」ということに根拠の無い信頼をおいてはいけない。
むしろ違いを意識することが理解の始まりになる。
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ゴッホという画家がいる。世界中の人が知っているぐらい有名だろう。
彼をゴッホと呼ぶのはドイツ系の人達だけで、出身地ではホッホ、フランスではゴーグ、英語圏ではゴウ、ということを最近知った。
いまさら変えられない。ホッホ。そりゃないじゃろ、と言いたい。
カタカナで書かれたものは、すべて日本語と考えよう。
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国会で、嘘をついたのつかないので紛糾して大臣が辞めたりしたことに関連させてか、A新聞の投書欄に「私たちは学校で絶対に嘘をつかないようにしている・・・・だから国会でも・・・」という10歳の子供からの文章が載せられていた。
これだから新聞は信じられない。
子供が嘘をつかない!
信じられない話で、本当だったら大変だ。
そんなことを思いながら、嘘について少し調べたら、おりしもこの節分に「広島県の新市町の吉備津神社では節分の夜ごもりに〈放談会〉〈うそばらし〉といってうそつき大会が催され,話じょうずが自慢のうそ話を出しあう」行事が開かれているという。今夜じゃないか。
また、こんな話にも驚かされた。
「関西地方では10月20日の夷講を誓文(せいもん)払いといって,1年間に商売上でついたうその罪滅ぼしに商店では大売出しや得意先の接待を行う。」
なんとあのエビス講がねぇ。
(いずれも平凡社世界大百科辞典より)
ほっとするな、人間は嘘をつく。あたりまえのことだ。
その当たり前が忘れられている。
学校の嘘。
ケンカも嘘も在って当然だが、仲間(共同体)を破壊しないというマナー(ルール)はある。食品の偽ラベル事件などは会社の中しか見えなくなった視野の狭さから生じているのだろう。
人間関係に嘘は必要だ。そのためには子供のときから嘘をつく練習をした方がいい。
人間関係を「芸術」と、嘘は「空想」と言い換えた方がいいかな。
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霧の深い朝だった。
通勤の車の中から、信号待ちの車を見ていて、いつになく排気管からの白い煙が多い事に気づく。
どうも今朝の空気は冷たく重いように感じられる。
牛か馬が群れていて、その吐く息が白い。そんな想像をする。
こんな朝は一年で何度も無い。つまり人生でも多くは無い。けれど、それが貴重なものだという気がしない。
若いころ、あれほど恐ろしく感じた死を、真剣に考えられなくなっている。
中年なのだな。
職場の雑務に追われる生活が当分は続く。こんな責任を負う年齢だから仕方ないけど、その任を全うしたところで残るのは空しさだけしかないこともわかっている。しかし、・・・・・・・
俺も平凡だな。
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デザイン実習の授業を見る。ポスターカラーを使った色彩構成だ。
懐かしい。枠の中を丁寧に色を塗りこめる作業は、あれこれ考えなくってもいいから幸せになれる。
ところで、自分の好きな色って何だろう?
黄色、いい色だ。木の褐色も好き。
そんな色とは別に忘れられない色というのもあるな、と思い出してみた。
小さなころ持っていたブリキの玩具で、車に主翼と尻尾をつけたら飛行機になるというのがあった。
それが青緑のメタリックで、まったく好きじゃないのだが離れられない色になっている。
もうひとつは幼稚園のときに描いた特急電車の絵に使ったオリーブというか濁った茶色というか、その種の色。いまは滅多に乗り物には塗らない色だけに、もう一度見てみたい。
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週末の土日は機会があれば、テニスに専念している。
ボール代の100円を払うだけで、4時間も遊べる。この安さには比べるものが無い。
下手にはなっていないが、さりとて上達もしていない。好調不調を繰り返しているだけだ。
最近、調子がいいので何故かと考えた。
自転車によく乗っていると、足が動く。それとボールがよく見えている。これは大きい。
そんな時は厳しいコースに打ち込まれても、楽々と間に合う。
プロ野球のバッターが「ボールが止まっているように見えた」とか「ボールの縫い目が見えた」とか言うのを聞いた事がある。多分、本当のことなのだろう。
これは絵を描くときにも通用することだろうか?
人体をクロッキーしているときはこのフィーリングを感じることがある。でも絵画の制作は画面でも対象でもない、それらの中間に存在するかもしれない「イメージ」を追う、という作業だ。
文字による創作も「ここではない、どこか」を追っている。
この頃は実生活でもそんなものを追っているな。
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ヴィバルディの声楽を繰り返し聴きこんでいるのだが、必ず眠りに落ちてしまう。
ゆるやかにうねる通奏低音にひきこまれるのか、反復する分散和音に麻痺させられるのか、
必殺の催眠効果に驚いている。
それには時期を同じくして始まった全豪オープンテニス観戦の寝不足も影響しているかもしれないが、 ともかく車の中では聴かないようにしよう。
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うっとうしい天気の日に、地元の旧メーンストリートを走り、久々に「醜い風景」を堪能する。
10年前には、あれほどムカツイテいたけれど、少し違った視線で見るようになっている。
たいそうに言うと、「何故こんなくだらない文化をつくってしまったのか」という深い悲しみだ。
若い人は、どのように日本の風景を見ているのだろう?
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インド料理を食べに行った。最も馴染み深いエスニック料理だから、いくらでも話したいことはある。
しかし、今日の話題は、そのことには触れない。
写真に換えて多用している、この乱暴なイラストについて考えたい。
ずっと写真を添えて印象を語ることを続けているが、ちと飽きてきた。で、マウスで素朴に描こうとしたのだが、使い勝手がいまひとつよろしくない。そこで最近、タブレットと呼ばれるペン入力装置を購入した。
あまり期待はしていなかったのだが、これが予想したよりもよろしい。快適である。
実際に紙にペンで描くよりも滑らかに描けるのだ。訳のわからない、なぐりがきでも単純明快あっさりとした雰囲気に仕上がる。つまり画面が版画みたいになるのだ。
アイコンをクリックする、ポイントをドラッグする、画面をスクロールするということではマウスが優れている。だが、線を引くというのはタブレットのものだ。
ただ1万円前後と安くない。絵が得意でない人にはメリットが少ないから普及することはないだろう。
以前には、そこまでしてパソコンで描くことに納得できないものを感じていたが、今はこの新しいデバイスに人間味を覚えている。おれはどこかおかしくなってきたのかな。
自分はちょっとおかしいのかもしれないと本気で考えられるか?できないだろうな。
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バーゲンでジャケットを買った。普通のおっさんらしい格好をしたくなってデパートの紳士服売り場へ、生まれてから3回目かな。
結局コールテン地のものにしたからカジュアルだけど、いつもより一桁違う金額を支払った。
普通の人は、服装にこれぐらいは出すのか。すごいね。実習室には着ていかないぞ。
帰りにヴァージンに寄ったら、ヴィバルディの声楽が2枚組1190円!
以前から探していたものが格安で。もちろん買う。
宗教曲のほうが世俗曲よりも多いが、あたりまえだ彼は司祭だったからな。
惹きこまれる。ヴェネチアでこんな音楽を作っていた。羨ましい。
さきほど紙屋町のパーキングに入る前の信号待ちで大きな体育館を見ながら考えていた。
50年後にはこの建物は存在していないだろう。法隆寺のように、建築家として名前は記録されなくても、永く保たれ続けるほうが幸せではないか?
美しい街を作る事業に献身する喜びを味わってみたい。大聖堂を造ることで多くの人々が幸せになれたことだろう。
ヴィバルディを聴きながらヴェネチアの町を歩いていた「赤毛の司祭」の姿を想像する。
2時間も音に浸って、この価格。信じられない。
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正月は吹雪の中を映画館へ。これが我等の初詣だった。「Oh!Brother」素晴らしい、大当たりだ。
カントリーミュージックのファンになりそう。30年代のアメリカが舞台なのだが、田舎のオッサンは皆デニムのオーバーオールを着ている。何故だろう?
昔に流行った事があったけどトイレに行く時たいへんだというので、定着しなかった。
でも、もう一度はいてみたくなった。
ところで座力という言葉を新聞で見た。
どれだけ椅子に座り続けていられるか、学者、芸術家の力量の尺度だという。
「ウーーム座力・・・」最近、甚だ不勉強なことが気になってもいたから、この言葉に響いたのかも。
普段使っているキャスター付きの椅子がよくないのかな。そこで、食堂で使っているウィンザー型に変えたらとても楽チンで見た目もよい。これで9時間ほど座ってみる。
悪くない、しかし前かがみの作業は苦しい。とか何とかで、現在4種類の椅子を部屋に置いてテストしている。
本気で考えたら、いい椅子はとても得がたいものだ。
楽を求めるなら寝転がっているに限る。コタツです。でも何かやろうとすると腰が痛くなるし、パソコンは使えない。
座力のテストのせいで新春から2冊の本が読めた。
「学力崩壊」と「高校が崩壊する」
この崩壊という言葉は99年から盛んに使われていたのだ。
それが昨年の9月11日に具体的なイメージとして世界に示された。
そうか、とっくに子供たちのほうから崩壊は始まっていたんだ。
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大晦日は正月といってもいい。というか、正月よりも正月らしくていいものだ。そこで御挨拶。
「新年おめでとうございます」
今年は祈りたいね。どこに行けばいいのか、ともかく祈るしかない。そんなことがいっぱい。
お祓いも兼ねて、ひとつ踊って見せるかとアニメを作ってみたら、なんともクネクネして不気味。
自分なんですね、この姿は。
何を作っても出るもので、おそろしい、恥ずかしい、逃れられないのだ。
こういう映像を見てると、あまり事態は好転しそうにないと思えてくる。
一部の方にはメールでも送ってしまって、いやあ、すみません、年頭から。
それでは、こんな私ですが、今年もよろしく。
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窓を洗っていたら網戸が痛んでいたので、修理することに。
子猫が網戸に登って遊んでいたので、あちこち傷だらけになっていた。4時間あまり屋外で作業していたら腰が痛くなった。久しぶりに感じるこの痛み。
90分ほど自転車を漕いで筋を伸ばす。しかし、帰りに本屋で立ち読みして、また腰痛に。
立ち読みの姿勢が悪いのだろう。本屋は要注意だ。
テニスをしても、いまひとつ調子が良くない。
前にも書いたけど、年末に掃除とか片付けなんてするもんじゃない。
年賀状もいかん。新しいソフトをひとつ試みたいのに、これで終始するなんてなあ。
何割かはメールに切り替えよう。
そんなことよりもホームページが腐りかけてる。更新してるのはここだけだ。
やっぱり掃除している時間はないぞ。
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研究室を少し模様替えしたら、ブックエンドなどが必要になった。
ハンズのカタログを見てもさほど種類はなさそうなので、近所のDIY店に行く。
意外に高い。金属を曲げただけのものなのに600円以上もする。
こういうものこそ100円SHOPへ。
なるほどありました。グレーの梨地仕上げのものを購入。二つ買っても200円。この価格差は流通の問題なのか。
しかし、製品に色と模様がついていなかったら、もっと利用するのに。
そうなると無印か。
奇妙だな、デザインしないことがデザインになっている。
教えないことが教育になったり、動かないことがスポーツになったりもする。日本的だね。
それにしても渋い色を使わず、原色ギラギラが多いのは何故だろう?
その方が売れるのか?ああいう色は安く作れるのか?ただ単に趣味が幼稚なのか?
色といえば赤、青、黄の三原色しか思い浮かばないという人も少なくない。
幼児が最も好む色としても三原色があげられている。
ほんとうだろうか?
僕は違っていた。うぐいす色とか焦げ茶色が好きだった。大人の勝手な決めつけじゃないかな。
子供らしい明るい色とか言って。
油絵でも水彩でも、初心者入門セットはこんな鮮やかな色を基本に組まれている。
油絵を始めた時、有名画家のパレットの配色に驚いたことがある。
この三原色がそろっていない!こんな色で描けるのかと。
実は、この三原色をパレットから省くと絵がとても上品になるのだが。
近代になって、化学合成で手軽に鮮明な色が使えるようになった。
原色は自然界に稀な、人間にもなじみの薄い、難しい色なのだ。
それを子供のときから与え続けている。
その結果が、このギラギラ日本の惨状を生んだのではないだろうな。
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渡り鳥がやってきて、冬枯れの河岸がにぎやかになっている。
せっかく強力な望遠のカメラに変えたのだから、鳥を撮影したい。
通勤途中に試みているが、相当離れていてもカメラを取り出したころには、すっと飛び去ってしまう。
こんな悲しい習性から抜け出すには、どれぐらいの時間と我々人間の変化が必要なのだろう?
野鳥が逃げない国はどれぐらいあるのか?昔からそうなのか?
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新聞で福永光司氏の訃報を見た。老荘思想の第一人者だった。
懐かしい名前、18,9歳のころ荘子に惹かれて読んだことがある。
翼を広げれば、ひとつの国を覆うほどの巨大な鳥が、最初に登場する。
思想が理屈でなく、イメージで語られるから、僕には親しみやすかった。
風と共に舞うグライダーみたいな考え型、生き方が説かれる。
もう一度読み返したいな。この頃、すごく忙しくしているから。
雑用から逃れることはできないが、呑み込まれたくない。
自転車通勤を5日連続させて走行距離は100kmを越えた。
少し、体が締まったようだ。
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久々に自転車を整備。
ロードバイクメンテナンスという本をWebで取り寄せたら、俄然、掃除しようという気になったのだ。
これまで灯油で洗っていたパーツを軽油に変え、洗剤も使ってふきあげる。
そして注油。塗装のリタッチも。できればバーテープも換えたかったが、これは近所では手に入らない。
さらさらと軽快に回るチェーン。傷だらけだが磨き上げたギア。
いいもんだなあ、これこそ道具、まさにメカ。
ベアリングをはずして洗浄し、グリスを塗り込めて組み直す。微妙なアジャストで激変する滑らかさ。
本当に楽しい。
これまでに何台もの自転車を再生修理してきた。家族みんなで5台、連なって市内へ行ったものだ。
こういう駆動系のメカニズムの堕落が電化製品に目立つ。パソコンなんか3年持てばいいですという設計だ。
自転車部品のメーカーで働きたいという人が、息子の友人に2人もいて意外だったが、こんな確かさに引き付けられていたのだろう。
(実際に工業デザインを経て就職したとか。世界一のメーカーが日本に、大阪にある。ホンダの研究所では自転車通勤の人が多いという記事を最近あるメルマガで読んだ。)
ほとんどの修理が自分でできる。これはすごいことなのだ。
針穴写真機も密かなブームらしい。こういうバランス感覚、うれしいね。
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「年末の忙しいときに、云々・・・・」という物言いが聞かれる時節になった。
なぜ年末だから忙しいのだろう?というか、忙しくしなければならないのだろう?
こんな寒い季節に大掃除をしたり・・・あれは止めるべきだね。
両親は年末の疲れで正月に寝込んでいたものだ。だから正月は嫌いだった。
当時は除夜の鐘を聞きながらも仕事に追われていたのだから仕方ないのだけど。
でも、おせち料理は深く記憶に残る。棒ダラの入った煮物は忘れられない。
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乳母車を押している若い母親を見かけることが多くなったように思う。
おそらく、通勤路であるアストラム沿線にマンションが増えたからだろう。
赤ん坊は可愛い。
でも以前なら、まず母親に視線を向けていた。今は子供たちに目が行く。
そのことに気づいて、ちょっと驚いている。
高層マンションで子育てを始める人が、日本の主流になっているのだ。
日本だけじゃなくって、世界のいろんなところで。
香港やシンガポールで個人住宅なんてあり得ないものな。
郊外の団地の一戸建てというのも、僕が小学校ぐらいから広まった。
6年生のころだったか。狭い京都の路地から、大阪近郊の新興住宅地へ引っ越した級友の家に、何人かで遊びに行った。
がらんとして、人気が無くて、風がやたらと強い。そこでバスを待ちながら子供心にも生活感の無い空しさを感じた。
田舎の集落にある、ぼけーっと一日座ってられような落ち着きは皆無だ。こんな空間をどんどんブチ壊して、空々しい生活環境を、短時間で当たり前のものにしてしまった。
こんなことが、心の荒廃をもたらしたんじゃないかと、思えてならない。
これだけ環境を変えたら、人間にも変化が生じるだろう。でも人は変わらないと思い込んでいて見えない。「わからない」という言葉の連発だ。
他にあったかもしれない選択肢は?現代化や工業化でなくて。
ブータンに行ってみたいな。
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ガレージの照明が壊れた。パーツの交換で直せるが、部品を探したり、切ったり貼ったりは面倒で、とてもやれない。
DIY店で以前よりも少し上等なものを購入。こうして資源の無駄が生じる。
「電気工事は資格を持った業者で」と大きく書かれていて、自前での器具の付け替えに不安を感じる。何をやってもうまくいかない今年のことであるから、また蛇口の二の舞にならないだろうか。
ガレージの照明は家の中からもオンオフが出来る回路になっている。
こういう家庭内の配線について素人向けの本があればいいのだが、禁じられているのだから出版されないのは当然か。電話工事ですら禁じられている。豆電球も灯らないほどの微小な電流なのに。
ともかくガレージのスイッチがオフになっているから良しとして、こわごわ作業開始。
仕事が進むにつれて不安も消えて鼻歌交じりで取り外す。ところが!
21世紀最初の華々しいショートを体験した。
家の配電盤をチェックするとヒューズは飛んでいないし冷蔵庫も動いている。あれで反応しないのも変だが被害は無く、一安心。
やっぱりね、こうなるんだ、今年は。
ゴム手袋をはめて露出した銅線をテープで覆い、慎重に作業する。その後は何事も無く、無事点灯。
それにしても、これまで何度ショートさせてきたことか。プラグを根もとまで差し込んでおかなかったために、傍らに立てかけていたピアノ線が倒れて2本の電極に接触し、派手にショートしたこともあった。
あのプラグとコンセントの作りはとてもデンジャラスだ。電極に積もった埃から出火することもある。
次男がまだ幼児のときに、ピンセットをコンセントに差し込んでバシッとショートさせたこともあった。
電気は怖い。久々に実感させられた。
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新しいデジカメが来て3日目。果たして、この買い物が正解だったのかどうかを考えている。
これまでは、こんな写真の撮影は難しかった。
まず小さな赤い実にピントを合わせるには液晶画面を使う。老眼だから眼鏡をはずすか、ずらさねばならない。そこから複雑な手順で焦点を合わせ、露出を補正する。
液晶を見るために、顔からカメラを離すという姿勢になり、それが不安定でカッコ悪い。加えて屋外では液晶画面はとても見にくい。
ファインダーですべてが確認できるこの新型では、それらの問題点は解決されている。ただ、コンパクト化を追求するあまり、操作性が犠牲になってはいる。
男にしては相当に華奢な俺の手でも、細かなボタン類を操作するのは苦しい。とくに縦位置で構えようとすると悲しくなるほどだ。
ミノルタは良かったが・・・操作性なら昔ながらの銀塩フィルム式の一眼レフを使うべきだろう。でも大きくて重いから持ち歩くのが億劫になる。
電池は切れた時に困るから、単三電池式が優れていると考えていたが、専用電池によるこの軽さに驚く。ACアダプターもすごく軽くて、海外でも使える仕様となっている。昨年に重い変圧器をヨーロッパまで持っていったことがバカらしくなる。
久々にマニュアル撮影を楽しんだけど、1枚撮るのに2分以上かかっていた。これでは通勤途中でメモ代わりに使うことはできない。それよりも考えて撮ることに煩わしさを感じていることに気づいて情けなくなる。
結局AUTOを多用することになるだろうが、あまりにも機能がたくさんついているので、当分は解説本を手放せないだろう。
対象を見たときに、どのモードで撮るか考えて電源を入れるようにしよう。
カメラのサイズは縦横は以前と変わらないが、奥行きは数センチ大きくなったので少しかさばる。
携帯するのには専用ケースが最適なのだろうが、アレは好きではない。
初めてカメラを買った学生時代に、傷つけてはいけないとケースを買ったのだが、気の利いた連中はそんなものは使ってなくて、恥ずかしくなり引き出しの奥に突っ込んだものだ。
実際に撮影する時も邪魔なものであるし、カメラを持って歩いていると知られて良いことは少ない。
ということで、ハンズで小型ショルダーバッグを購入。
解説書と予備の電池を入れて、万全の構え、さて、何を撮る?
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コタツの上で猫がガチャガチャとじゃれている。
見ると眼鏡が壊れてレンズが外れていた。
ちょっと修理は難しそうだ。
二十数年掛けていて最近は度が合わなくなってはいたけど、顔つきの変化にも合わなくなっていたけど、数少ない長年変わらないものとして手放しがたく思っていたのだ。
あっけないな。G.ハリソンも死んでしまったし。
中学の時はジョージが一番カッコいいと思っていた。あのキラキラした彼らがねぇー。
さてさて、次はどんな眼鏡にしようか?
いま横長のタイプが流行ってるというか、そればかりが店頭に並んでいるが、あれは嫌いだ。
キアヌ・リーブスなら似合うだろう。ジュード・ロウなんか黒眼鏡で瞳を隠して歩いてもらいたいものだ。
タイプとしてウッディ・アレンに近い俺としては、今までと同じボストン型を探したい。もっと丸い眼鏡も掛けてみたいのだがスケベで有名な写真家そっくりになるのでカメラ好きの俺ではあるが、避けるべきだろう。
翌朝、眼鏡店に行く。
種類を見たくて大きな老舗店に行ったのだが、案の定オーソドックスが無い。
ようやくこれだけが・・という2種類から以前と同じようなタイプを選ぶ。
折れた眼鏡も500円で接合してもらえるという。うれしや、そのうちこれはレンズを入れ替えて老眼鏡にしよう。
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卒業制作のシーズンになり、あれほどサボっていた学生たちが、突然に大きなキャンバスを張って描き始めている。
描き始めの作品は魅力的なものだ。ここで止めればいいのに、と思う。
でも、その感想に従う人はいない。当たり前だろう。まだ描き始めたばかりだから。
いくら誉めても、本人が少しはそう感じても、そこで筆を置くことは出来ない。その気持ちはわかる。
いつも自分がやっていることでもある。
結果としては止めて置けばよかったということになるのに、勤勉に描き進める。何故か?
わざわざ「努力して」可能性と魅力を抹殺し、どこにでもあるような凡庸な作品にしてしまう。
いくつもの理由があって、そんな行動をとるのだろうけど、「学校で教えていること」のなかに構造的な原因があるようにも思われる。
ともかく、「何かを見つける」ところまでは行ける。そこから先、明快に表すことが難しい。
難しい、というのはなく「すんなりと」行けない。
肩の力を抜くしかないな。空でも眺めよう。